2016年7月30日土曜日

7月の読書

「弱くても勝てます」 高橋秀実 新潮文庫 2012
庭木の自然風剪定 峰岸正樹 農文協 2001
京都・お婆さんのいる風景* 名古きよえ コールサック社 2011
もうすぐ夏至だ* 永田和宏 白水社 2011 
オイッチニーのサン* 高野澄 PHP研究所 2008
世界といまを考える2* 是枝裕和対談集 PHP文庫 2016
出来事と写真 畠山直哉x大竹昭子 赤々舎 2016
忘れられた巨人* カズオ・イシグロ 早川書房 2015
わたしを離さないで* カズオ・イシグロ 早川書房 2006
数学する身体* 森田真生 新潮社 2015
八紘一宇* 島田裕巳 幻冬舎文庫 2015

2016年7月20日水曜日

郡上八幡

郡上八幡に向かう途中、梅雨が開けたことを知る
今回の郡上行きはオスマン音楽がお目当てで、郡上踊りは次回に持ち越し
そういえば、郡上市も気温が上がることで有名なところだ

京都から岐阜までは各駅停車
岐阜駅で改札を出ようとしたら、ICカードを受け付けてくれない
窓口に行ったら、ここはJR東海ですと言われ、JR東海が新幹線だけではないことを知る
そこから高速バス
京都から郡上八幡まで直接バスで行けることは後から知った

街中のどこからでもお城が観える
山の中腹にある宿に荷物を降ろし、そこから城を目指す
天守閣を通り抜ける風が心地よい
























山を降りる
観光客の姿はすでまばらで、音楽会が終わったころには食事処は閉まっていそうだ
うなぎ屋をみつけて、うな重を注文
うなぎといえば、オヤジのことを思い出す
一之江に行く度に、うなぎ屋に繰り出していた

























会場である安養寺の本堂へ
正面に端正な阿弥陀仏が置かれている
中央前から三番目の座布団の上に陣取ることにする
いつも感じるのだが、由緒あるお寺の本堂は実に座りやすい

「トルコ・スーフィー 音楽の祭典」に来るきっかけを作ってくれたのは石坂亥士さん
昨秋、京都に引っ越す前に群馬の友人たちが設けてくれた送別会の席ではじめて出会った
土取利行さんの内弟子だったというパーカショニスト

音楽家たちはそれぞれ素晴らしい
クツィ・エルグネル Kudsi Erguner ネイ(葦笛)
ベキル・ビュユックバッシ Bekir Buyukbas 詠唱
ムラット・アイデミイル Murat Aydemir タンブール
土取利行


























一泊して翌日午前中は街の中を散策
小さな水路が流れている町並みは涼しげ
町の中央を流れる川で鮎釣りをしている人もいるではないか

























筆動法の前になると旧暦カレンダーを見る
梅雨明け前だったのに季節でいえばすでに晩夏
いま咲いている木槿など、秋の季語であることに驚く
雨の合間を縫って買物にでかけ、 帰ってくると、どことなく秋の気配
それが一週間前のことだ
唐突に梅雨が明け、湿気も一気に抜けた
普通ならここで、「夏本番」とでもいうのだろうが、
日はすでに短くなりつつあり、夕方の影は秋のおとづれを告げている

2016年7月12日火曜日

庭木

庭木についての知識は皆無
いったいどの季節に剪定すればよいのか
紫陽花は花が終わったらすぐハサミを入れるとあるので、
早速、剪定ばさみを買ってきて、刈り込んだ

図書館から本を借りてきて勉強中なのだが、
春先までにやっておくべきことがたくさんあったらしい
あとのまつりだが、寒い間は庭木のことなど気にしなかった
いまはムクゲが満開だ

庭木に水をやろうと、
横浜から持ってきたホースを蛇口につけたら
長さが全然足りない
これも、買い足さねばならない

季節が巡っていくたびに、モノが増えていく

2016年7月5日火曜日

等持院撮影所年譜

1921年から11年間、この家が立っているところに撮影所があったらしい。マキノ・プロジェクトによると、「当初、等持院山門をくぐると参道の西側部分にステージ1棟、倉庫、俳優部屋、事務所があった。東亜キネマ京都時代には、ダーク・ステージ4棟、オープン・ステージ2棟へと成長した」とある。1932年、撮影所は閉鎖され、跡地は競売に付され、宅地になった。

以下の年譜は、「等持院撮影所」をキーワードにインターネット検索した結果をもとに再構成したもので、自分で文献に当たるといった作業はまったく行っていないことを予めお断りしておく。矛盾する記述は無視し、文体だけを揃えた。文化庁が運営する日本映画情報システムで「等持院」を検索すると322件の映画がリストアップされた。どうやら、ここは日本映画黎明期の重要な舞台の一つだったらしい。

1921年(大正10年)6月、マキノ省三は、京都市北区・衣笠山の麓の等持院境内に「牧野教育映画製作所」を設立、同年9月、同所に「等持院撮影所」を建設・開業した。牧野教育映画製作所は、やがて、それがマキノキネマ株式会社へと発展、先駆的な時代劇映画を送りだすとともに、後の日本映画を支える人材を育成した。

1924年(大正13年)6月、東亜キネマがマキノを吸収合併し「東亜キネマ等持院撮影所」と改称される。

1925年6月(大正14年)、マキノが東亜キネマから再び独立し「マキノ・プロダクション」を設立。花園天授ヶ丘「御室撮影所」へと移転する。等持院撮影所の旧マキノ派は新生マキノ・プロに結集した。「東亜キネマ等持院撮影所」は「東亜キネマ京都撮影所」と改称される。所長には同社の親会社・八千代生命の宣伝部長である小笹正人が就任した。

1927年(昭和2年)東亜キネマは「甲陽撮影所」を閉鎖、等持院の「東亜キネマ京都撮影所」に製作事業の拠点を一元化した。

1929年(昭和4年)3月、小笹が同社を退社、出版事業等にも手を出して没落した親会社・八千代生命が映画製作事業から撤退、牧野の長女の夫・高村正次が京都撮影所長に就任し、事業の立て直しを図った。

1930年(昭和5年)に阪急電鉄の小林一三が設立した「宝塚映画」に働きかけ、資金面での提携を図った。

1931年(昭和6年)9月、同社の製作代行をする会社として「東活映画社」が設立され、高村は退陣、安倍辰五郎が「東活映画等持院撮影所」の所長に就任した。高村は小説家・映画プロデューサーの直木三十五の協力を得て「大衆文芸映画社」、「正映マキノ」を設立してゆく。

1932年(昭和7年)10月、わずか1年で東活映画社が解散し、東亜キネマは製作事業をついに断念、「等持院撮影所」を閉鎖する。同年11月、「正映マキノ」の高村が再度登場し東亜キネマを買収、「御室撮影所」に宝塚キネマを設立、東亜キネマはその9年間の歴史に幕を閉じた。「等持院撮影所」は競売に付され、1933年(昭和8年)5月には住宅地となった。

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参考サイト
*立命館大学アート・リサーチセンターマキノ・プロジェクト
*ウィキペディア

2016年7月4日月曜日

風景

娘のお腹に手を当てて愉気している
生まれて二日目の赤ん坊は、母親のお腹にしがみつくような格好で眠っている

妻を送ったときの風景が蘇る
真ん中にいたのが妻で、娘は向こう側に座って妻に手を当てていた

生と死
真逆の出来事なのに
そこにある空気感は似ている
静謐な時間が流れていく

小さないとこたちが訪ねて来て
眠っている赤児の寝顔を神妙に見入っている
新しい仲間を迎えている
いい風景だな

2016年7月2日土曜日

7月

月末三日間の稽古会に出て、その後、等持院稽古場で「せうそこ」第一回。さらにキダさんのところで会食という過密日程をこなすと、さすがにへろへろで、その日は爆睡。目覚めたらもう7月だ。

7月に入れば、8月の稽古日程も出さねばならぬ。困ったことに決まり切らない部分がまだあって、予定表を出しそびれている。特別行事も目白押しで、特に中旬以降、天河神社奉納能、白山登山、上越稽古場連座、月末の研修と続く。

おまけに、東京にいる娘のところに子どもが生まれたので〜とうとうジージと呼ばれることになった〜様子ものぞきに行きたい。引っ越して一年も経たぬというのに、優雅な京都隠遁生活に暗雲が漂いはじめている。

8月の稽古日程は数日中にアップします。