1921年から11年間、この家が立っているところに撮影所があったらしい。
マキノ・プロジェクトによると、「当初、等持院山門をくぐると参道の西側部分にステージ1棟、倉庫、俳優部屋、事務所があった。東亜キネマ京都時代には、ダーク・ステージ4棟、オープン・ステージ2棟へと成長した」とある。1932年、撮影所は閉鎖され、跡地は競売に付され、宅地になった。
以下の年譜は、「等持院撮影所」をキーワードにインターネット検索した結果をもとに再構成したもので、自分で文献に当たるといった作業はまったく行っていないことを予めお断りしておく。矛盾する記述は無視し、文体だけを揃えた。文化庁が運営する
日本映画情報システムで「等持院」を検索すると322件の映画がリストアップされた。どうやら、ここは日本映画黎明期の重要な舞台の一つだったらしい。
1921年(大正10年)6月、
マキノ省三は、京都市北区・衣笠山の麓の等持院境内に「
牧野教育映画製作所」を設立、同年9月、同所に「等持院撮影所」を建設・開業した。牧野教育映画製作所は、やがて、それがマキノキネマ株式会社へと発展、先駆的な時代劇映画を送りだすとともに、後の日本映画を支える人材を育成した。
1924年(大正13年)6月、
東亜キネマがマキノを吸収合併し「東亜キネマ等持院撮影所」と改称される。
1925年6月(大正14年)、マキノが東亜キネマから再び独立し「
マキノ・プロダクション」を設立。花園天授ヶ丘「御室撮影所」へと移転する。等持院撮影所の旧マキノ派は新生マキノ・プロに結集した。「東亜キネマ等持院撮影所」は「東亜キネマ京都撮影所」と改称される。所長には同社の親会社・八千代生命の宣伝部長である
小笹正人が就任した。
1927年(昭和2年)東亜キネマは「甲陽撮影所」を閉鎖、等持院の「東亜キネマ京都撮影所」に製作事業の拠点を一元化した。
1929年(昭和4年)3月、小笹が同社を退社、出版事業等にも手を出して没落した親会社・八千代生命が映画製作事業から撤退、牧野の長女の夫・
高村正次が京都撮影所長に就任し、事業の立て直しを図った。
1930年(昭和5年)に阪急電鉄の小林一三が設立した「宝塚映画」に働きかけ、資金面での提携を図った。
1931年(昭和6年)9月、同社の製作代行をする会社として「
東活映画社」が設立され、高村は退陣、安倍辰五郎が「東活映画等持院撮影所」の所長に就任した。高村は小説家・映画プロデューサーの直木三十五の協力を得て「大衆文芸映画社」、「
正映マキノ」を設立してゆく。
1932年(昭和7年)10月、わずか1年で東活映画社が解散し、東亜キネマは製作事業をついに断念、「等持院撮影所」を閉鎖する。同年11月、「正映マキノ」の高村が再度登場し東亜キネマを買収、「御室撮影所」に宝塚キネマを設立、東亜キネマはその9年間の歴史に幕を閉じた。「等持院撮影所」は競売に付され、
1933年(昭和8年)5月には住宅地となった。
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参考サイト
*立命館大学アート・リサーチセンター
マキノ・プロジェクト
*ウィキペディア