2017年10月24日火曜日

整体観

いつもは操法する側にいる
そんな私が操法を受けてきた
すると「整体観」という言葉が浮かんできた

そうなのだ、操法とは「整体観」が出会う場なのだ
身体観という言葉を充ててもそう間違ってはいないのだが、
身体観、死生観も含め、ここでは、あえて整体観という言葉を使う

普段は操法をする側にいる
その行いは、私の整体観の表現といえる
受ける側もなにがしかの整体観をもって操法に臨む
そこでどのような出来事が起こるのか?
操法を受ける体験とは、この出来事との邂逅を意味する
はたして、自分はどのような整体観をもって、人に触れているのか?
ひさしぶりに操法を受ける立場に身を置いて、そんなことを考えた