新しい命の誕生を人はずっと祝福をもって迎えたのではないか
逝ってしまった命を人はずっと悼みつつ見送ってきたのではないか
こうして、ずっと人は命をつないできたのではないか
愉気について考えている
愉気を受ける経験、それが整体の核となっている
これは確信を持っていえる
では、愉気を受けているとき、あるいは愉気を行なっているとき、
僕らはどのような感覚経験をしているのだろう
なぜ、愉気には修練が必要になるのだろう
太古の昔から風は吹いていた・・・
晴哉先生は、風という言葉を用いて、なにかを伝えようとしている
そもそも僕は愉気を経験したことがあるのだろうか
妻を見送ったときの経験が愉気だったのだろうか
それとも、娘が出産したあとの風景なのか
世界を、他者を、肯定的に迎え入れられる能力
これこそが、整体において僕らが体力と呼んでいるものだ
そして、その能力を育てるものとして愉気がある
世界は生きるに足りる愉しい場所である、と
ここから、なぜカタなのか、という問題に踏み入っていくことになる