2020年8月19日水曜日

お勉強

整体を学ぶことを「お勉強」にしている人が多くて困る。

そもそも、この「お勉強」というのはなんなのか?
長年の学校教育の中で形成されてきた、インプットの量とアウトプットの量は相関関係にあるという観念のことを揶揄して「お勉強」と呼んでいるのだろうと思う。このマインドセットは相当に強固で、いまの日本の学校教育における決定的弱点になっている。

とはいえ、稽古場が始まったころの自分自身を振り返れば、かなり重度のお勉強主義者だったことにいきあたる。つまり、正解欲しい病なのですね。そのようなマインドセットを自分で毀そう毀そうとしてきた割には、ぜんぜん毀れていなかった。一つのことを学ぶ。なにかができた気がする。すると、翌日、その学んだことをちゃぶ台をひっくり返すように否定される。この繰り返し。これを繰り返していながら、こころのどこかで、「ぼちぼち決定版がでてくるんじゃないのか」と正解を期待している。あるときーだから、稽古場がはじまって十年くらいしたころですーひょっとして、正解って永遠にでてこないんじゃないのか?という疑問が生まれた。

動きのなかだけに真実はあるんだ、というビジョンが観えたのはいつのことだったか。上で書いたような疑問が生まれてから、そう時間が経っていたようには思わない。夢の中だったか、起きているときだったか覚えてないけれど、一瞬だけ、「動いていることが本質なんだ」というビジョン(そう、視覚的なものでした)がやってきて、それはあっという間に消えた。どうにも言語化しづらい体験。稽古が楽しくなったのは、ここからかもしれない。

そう、努力は報われないのです。
といって、努力なしで結果が出るほど、都合のよい世界であるはずもないのです。努力して、随伴行気のチャートを覚えないとなにも始まらないのです。努力を怠ってはいけない。しかし、その努力が報われるかどうかは神のみぞ知る、という世界なのです。困りますね。

「偶然に賭ける」という表現を師匠はしていたように思うのですが、偶然なにかが起こったとき、学びという出来事が立ちあがるのです。