2020年8月6日木曜日

ウイズコロナ

いまだ、マスクを持ち歩く習慣が身に付かない。玄関を出て、だいぶ歩いてから気づき、マスクを取りに家に戻るということを繰り返している。マスクすること自体が苦痛だから、結局、引き篭もることを選んでしまう。

ウイズコロナとかいってるけど、僕らはどのようにコロナウイルスと切り結ぼうとしているのか。感染者の数が日毎増えている状況からすれば、いくら忌避しようと試みても、いつか出会ってしまうことになるだろう。それを前提として暮らしていかないと窮屈になる。その準備として、あらかじめワクチンで体内に抗体をつくっておくという対処法を考えているようだが、変異し続けるウイルス相手に、はたしてどれだけの有効性を持ちうるのか? 第一、ワクチンが出回るようになるまで、どのように過ごしていくのか。

政治は当てにできない。その無能さはコロナ対応の中で突出している。無能であるならなにもやらないでおけばいいのに、繰り出してくる雑な対応策は状況を悪化させるばかりである。雑は無策に劣る。今頃になって、最初は非難轟々だったスウェーデンモデルが見直されているらしいけれど、モデルという言葉が有効性を持つ程度には筋が一本通っている。日本モデルというものは存在しない。見えないものにどう対応するかで民度のレベルは測れるのだろう。怖いのであれば家で布団かぶって寝てればいい。でも、無能な政治の片棒担いで自粛警察をはじめてしまうのは醜悪でしかない。ウイルスを怖がる以前に、村八分になることを恐れているようにみえる。

感染することと発症することは違うし、発症することと重症化することはちがう。なぜそこに違いが出てくるのか。運不運の問題なのか。感染者の総数が抑制されれば医療崩壊を招きかねない重症者の増加を抑えられるというのは正しい。出かける時にマスクを持参するのは、感染者増加のスピードを加速化させないためのエチケットと思うからであって、それ以上でもそれ以下でもない。

仕事中、マスクはしない。それを納得する人だけが来ればいい。理念というより美意識の問題と言ってよい。コロナウイルスによって生命は脅かされる可能性はある。しかし、自らの美意識に殉ずる覚悟のないものがコロナ後の世界を生き延びて行けるとは、とても思えないのだ。