2022年2月23日水曜日

千の抽斗(ひきだし)

ふたむかし前のことだ。日曜日に本部稽古場でやっていた初心者向けの稽古会に顔を出したことがある。そのぬるさに驚いた。動法をすっ飛ばして稽古している。「放し飼いにしている」と師匠は笑っていたが、動法なしの内観なんて宝の持ち腐れではないかと憤慨した覚えがある。

自分がたどった道筋をなぞるように教えていこうというのは、教える者の習性みたいなものかもしれない。まず動法ありき。動法なき稽古場はありえない。これは今でも正しい。基本はすり足であり、坐法であり臥法である。だが、それをいっと最初に持ってくる必然性があるのかどうか、今となっては、ちょっとあやしい。

千の抽斗があったとしても、普段使いしているものは十にすぎず、この十個を組み合わせながら日々稽古していることに愕然とする。人に適わせてふさわしい抽斗を開ければいいものを、知らぬ間に開ける抽斗の数が限られてきて、開ける順番も自分がたどった道筋をなぞろうとしている。ひとつの稽古を深めるといえば聞こえはいいが、その実、習慣性というループにはまっている可能性も大いにある。

せっかく千の抽斗があるのだから、組み合わせはもっともっと自由であるはずなのに。