糀生活丸一年。塩糀、醤油糀、玉ねぎ糀は、もはや必需品。白山に行くたびに糀屋さんで糀を買ってくる。大半は甘酒になる。先週には仕込んでおいた初めての手前味噌を開封。美味しいじゃないか。小倉ヒラク さんの手前味噌の歌を聴いてから7年は経っている。このアジア発酵紀行 、糀のルーツをたどって、中国雲南省、ネパール、インド東北の国境地帯に足をずいずい踏み入れていく。
今月から近所のシェアキッチン yourではじめる「からだを失くした現代人のための身体教育論」の背後に「整体育児論はフェミニズムと出会えるのか?」というテーマが隠れていることに気づき、自分で驚いた。この本の中では、哲学史における「正義の倫理」と「ケアの倫理」が対比されるかたちで説明されていて、なるほど、哲学をする人たちは物事をこのように考えるのかと半ば呆れ、半ば感心してしまった。驚いたことに、1970年代になるまで、女性視点での哲学は哲学業界では考慮されてなかったのだ。「正義」というのは、多分、justiceの訳語で、この倫理がまとう家父長的な色合いは、おそらく育児という仕事が奴隷によって行われていた時代にまで遡る。つまり、人の出発点を個人、「独」からスタートさせようとする。一方、ケアの倫理だと、関係性、「双」の視点を取り入れようとしている。この展開は面白い。野口晴哉が「育児の本」を書いたのは1950年代。この時点で、「双」の視点は組み込まれているし、なによりも「子供」の視点に立っている。