2012年6月25日月曜日

つらつらと

だらだらと、あるいは、つらつらと書いていくというスタイルが思いのほか、いまの自分に適っていることを発見してしまったので、しばらく、こんなスタイルで、とりとめのない文章を書いていこうと思う。

野口晴哉公式サイトというのが立ち上がったことは、何日か前、このブログでもアナウンスした。私のところに「いいですね!」と感想を送ってくれる人もいるが、サイトを見れば分かるように、制作、野口晴哉公式サイト制作チームとある。整体協会も身体教育研究所も全生社も「制作協力」という立場で名を連ねているだけである。じゃあ、制作チームって誰だ?

整体協会とのつながりは、もう35年くらいになるのだが、私は生前の晴哉先生と会ってない。タイミングを外すというのは、僕の特技ではないかと思っているくらいなのだが、整体協会に入会したのは、晴哉先生が亡くなって数年後のこと。つまり、僕の出発点は「野口晴哉を知らない世代は、どのように整体を学びうるのか」という一点にある。はっきりいって、晴哉先生を知っている人たちは、それだけでo.k.なのです。それに比べて、出遅れてしまった私など、それだけでハンディを負っている。整体の勉強などまったくしたことのない私のカミさんは、なぜか生前の、しかも下落合時代の野口先生と会っている。それだけで、家庭内においてすら、カミさんは僕よりも優位な位置を保持している(笑)。

余談だけれど、なぜうちのカミさんが下落合の道場に行ったかというと、そこでお姉さんが働いていたからというだけの話。私にとっては義姉になるのだけれどTさんという。はい、泣く子も黙るTさんです。御年71歳のはずーと年齢を書いてちょっと違和感があるくらい若いなーだから、整体協会歴は50年+のはず。整体協会が社団法人になってからは、そこの職員ということになるのだけれど、そもそもの始まりは、洋裁をやっていた晴哉先生の妹さんところで働くことになったのがきっかけのようで、それが横滑りして晴哉先生の秘書みたいな立場になっていったらしい。雑談の中で、当然、晴哉先生の話は山のようにでてきて、面白い話もいっぱい聞いた。何度か録音機を回して話を聞こうとしたことはあるのだけれど、ダメですね。僕はインタビュアーとしては優秀なはずなのだけれど、ことT姉はダメです。ちょっとでも改まった感じがあると、何も出てこない。古い指導者もどんどん亡くなり、整体協会前史を知る人はどんどんいなくなってるから、今のうちにだれか、ちゃんと話を聴いておいたほうがいいですよ。

僕が整体を学び始めたころというのは、晴哉先生をよく知っているという人たちが大勢いたわけだけれど、その人達の話をいくら聞いても「私は野口先生に可愛がってもらった」ということは伝わってくるが、「群盲象を評す」ようなもので、晴哉像はいっこうに焦点を結んでくれない。結局のところ、偶像化だけがどんどん進んでいく。

つづく