あと数週間で還暦だ〜
映画はいつ観に行っても千円だし、
ビールくらい解禁にしちゃおうかな
などと思いながら継続中の部屋の片付けをしていたら
いきなり腰痛になった
月末恒例の白山稽古会の前々日のこと
この歳になるまで、ちゃんとした腰痛って、あまり経験してない
ついに来たかーーって感じだ
体をなだめすかしながら
羽田小松経由で金沢にたどり着く
一定の体勢を保っているときはどういうこともない
が、動き始めが・・・
金沢駅前フォーラスにある映画館で封切直後の
『ダークナイト・ライジング』をレイトショーで観る
予備知識ナシ
勧善懲悪のヒーローものだとばかり思っていたのだが、
随分深いテーマを扱っているのだ・・・
前作、前々作も観たくなる
三時間の後、椅子から立ち上がるときは大変だったが
稽古会当日、なぜかキツイ動法に入り込んでしまう
坐法・臥法をやり直すという流れはたしかにあった
もっと控え目に運んでいくやりかたもあるはずなのに、
どんどん深みにはまっていく
白山稽古会の場合、まだ自分がモデルとなって見本を示すしかないから
結果、自分自身を追い込む羽目になる
動法の理に沿って動けば、たしかに痛まない
ちょっとでも誤魔化すと、痛み百倍
冷や汗をかきながら最後までたどり着く
今年に入って随分いろんな出来事が起こり、
その集大成がこの腰痛ということなのか
体の再構成も進行中
2012年7月29日日曜日
7月の読書
月への梯子* 樋口有介 文藝春秋 2005
きものという農業* 中谷比佐子 2007
時には漫画の話を* 川本三郎 小学館 2012
短歌パラダイス* 小林恭二 岩波新書 1997
「森の長城」が日本を救う* 宮脇昭 河出書房新社 2012
新宗教ビジネス* 島田裕巳 講談社biz 2008
生きていく民俗 宮本常一 河出文庫 2012
311を撮る* 森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治 岩波書店 2012
宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み* 西岡常一棟梁の遺徳を語り継ぐ会 日本経済新聞社 2005
もしもし、運命の人ですか。* 穂村弘 メディアファクトリー 2007
アダムの呪い* ブライアン・サイクス ソニー・マガジンズ 2004
きものという農業* 中谷比佐子 2007
時には漫画の話を* 川本三郎 小学館 2012
短歌パラダイス* 小林恭二 岩波新書 1997
「森の長城」が日本を救う* 宮脇昭 河出書房新社 2012
新宗教ビジネス* 島田裕巳 講談社biz 2008
生きていく民俗 宮本常一 河出文庫 2012
311を撮る* 森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治 岩波書店 2012
宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み* 西岡常一棟梁の遺徳を語り継ぐ会 日本経済新聞社 2005
もしもし、運命の人ですか。* 穂村弘 メディアファクトリー 2007
アダムの呪い* ブライアン・サイクス ソニー・マガジンズ 2004
2012年7月23日月曜日
2012年7月17日火曜日
暑中お見舞い申し上げます
年頭「春になったら四国遍路に出るぞ!」と高らかに宣言したものの、3月末になって妻が入院することになり、以後、4月5月は専業主夫として病院に通いながら家事に励む事と相成りました。よって、四国遍路は実現しておりませんが、初体験の専業主夫業は、これまでないがしろにしてきた「暮らし」というものに目を向ける貴重な体験となりました。幸い、5月末、二ヶ月に及ぶ入院生活から妻は無事帰還し、日に日に体力・体調を取り戻しつつあります。長期の入院生活を経たのだから、生まれ変わって戻ってくるであろうと期待していたのですが、性分というのは誠に強固なようで、以前と寸分も変わらず、「正しく病む」ことの困難さを実感させられています。想定外の出来事続出の今年前半でありましたが、私自身は来月に迫った還暦をいったいどのような心境で迎えればよいのか悶々としながら、同時に社会復帰を目指しリハビリ中です。今年も暑い夏になりそうです。皆様のご健勝をお祈りいたします。
二〇一二年夏
2012年7月10日火曜日
ほむほむ
ほむほむ、ほむほむ、
と若者が嬉しそうにつぶやくので、
「ほむほむ」とはなんだと問うてみたら、
穂村弘という歌人だという
どうやら、アイドル歌人、あるいはカリスマ歌人、らしい
本屋の棚を探してみたら、あったあった
『短歌の友人』(河出文庫)という本を見つけて読み始めた
これは名作だ
短歌にはまるで不案内なのだが、
ページをめくるたびにふむふむと頷くことになった
様々な媒体に折々に発表された文章を一冊にまとめたものなのに
まるで齟齬がない
270頁の文庫本にしては濃密すぎる
…我々が〈近代〉以降の時間を生きつつ、同時に〈戦後〉という時間を生きつつ、同時に、〈今〉を生きている、ということである。我々は三つの時間に同時に生きている。そして〈近代〉以前の時間からは大きく切断されている… (p.205) …斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う… (p.126 ) …次に戦後という時代性に対しては、…私見では、短歌は「言葉のモノ化」というかたちでもっとも鋭くこれに「対応」したと思う…(p.133 )…すべてがモードの問題に還元されるような感覚を突き詰めるとき、その根本にあるものは死の実感の喪失である..(p.131)
と、めずらしくたくさん引用してしまったが、
時代の変化と短歌のモードの変遷は、
当然のことだけれど、身体性の変遷と対応している
で、問題は〈今〉なのです
…決定的に〈酸素〉が足りない世界で生きていくために、人間は機械に〈進化〉したのだろうか…(p.107)
のような〈今〉
しかも、自分自身が拠り所としていたものは幻であったことが
露わになってしまった原発事故後の〈今〉
〈今〉の〈私〉は、
上で引用した「三つの時間」のレイヤーが
地震によって撹拌され、ぐちゃぐちゃになった液状化状態
再編成が進行中という感触はあるのだけれど、
形になるまで、もうちょっと時間がかかりそうだなぁー
と若者が嬉しそうにつぶやくので、
「ほむほむ」とはなんだと問うてみたら、
穂村弘という歌人だという
どうやら、アイドル歌人、あるいはカリスマ歌人、らしい
本屋の棚を探してみたら、あったあった
『短歌の友人』(河出文庫)という本を見つけて読み始めた
これは名作だ
短歌にはまるで不案内なのだが、
ページをめくるたびにふむふむと頷くことになった
様々な媒体に折々に発表された文章を一冊にまとめたものなのに
まるで齟齬がない
270頁の文庫本にしては濃密すぎる
…我々が〈近代〉以降の時間を生きつつ、同時に〈戦後〉という時間を生きつつ、同時に、〈今〉を生きている、ということである。我々は三つの時間に同時に生きている。そして〈近代〉以前の時間からは大きく切断されている… (p.205) …斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う… (p.126 ) …次に戦後という時代性に対しては、…私見では、短歌は「言葉のモノ化」というかたちでもっとも鋭くこれに「対応」したと思う…(p.133 )…すべてがモードの問題に還元されるような感覚を突き詰めるとき、その根本にあるものは死の実感の喪失である..(p.131)
と、めずらしくたくさん引用してしまったが、
時代の変化と短歌のモードの変遷は、
当然のことだけれど、身体性の変遷と対応している
で、問題は〈今〉なのです
…決定的に〈酸素〉が足りない世界で生きていくために、人間は機械に〈進化〉したのだろうか…(p.107)
のような〈今〉
しかも、自分自身が拠り所としていたものは幻であったことが
露わになってしまった原発事故後の〈今〉
〈今〉の〈私〉は、
上で引用した「三つの時間」のレイヤーが
地震によって撹拌され、ぐちゃぐちゃになった液状化状態
再編成が進行中という感触はあるのだけれど、
形になるまで、もうちょっと時間がかかりそうだなぁー
2012年7月9日月曜日
2012年7月7日土曜日
父
一之江に父を訪ねる
だいたい月1のペースなのだが、
このところ間隔が空いてしまっている
二人してバス停で2つ先にある鰻屋に向かう
バス停まで200メートルばかり歩くのだが、
「最近はなんかふらついて…」と言いながら、
使いはじめて間がない杖を頼りにヨタヨタと歩いていく
父のその姿を斜め後ろから見ていて、「いい感じだな」と思う
たしかにヨタヨタしているし、歩道を疾走する自転車にはひやひやする
ありていに言えば、足腰が衰えて来たと表現されるべき現象で、
実際危なっかしいことこの上ない
でも、余分な力が抜けた、その「ヨタヨタ」感が実に佳いのだ
正しい「衰えかた」ってものは、間違いなくある
父と一緒に歩きながらそんなことを思った
だいたい月1のペースなのだが、
このところ間隔が空いてしまっている
二人してバス停で2つ先にある鰻屋に向かう
バス停まで200メートルばかり歩くのだが、
「最近はなんかふらついて…」と言いながら、
使いはじめて間がない杖を頼りにヨタヨタと歩いていく
父のその姿を斜め後ろから見ていて、「いい感じだな」と思う
たしかにヨタヨタしているし、歩道を疾走する自転車にはひやひやする
ありていに言えば、足腰が衰えて来たと表現されるべき現象で、
実際危なっかしいことこの上ない
でも、余分な力が抜けた、その「ヨタヨタ」感が実に佳いのだ
正しい「衰えかた」ってものは、間違いなくある
父と一緒に歩きながらそんなことを思った
2012年7月2日月曜日
お茶の稽古
白山稽古会でお茶の稽古をした
会場はいつものふるさと館
お茶を通しての動法・内観を教授しているOさんに来ていただいた
参加者の大半はお茶ははじめて
Oさんの教え方はなかなか大胆で、いきなりお茶を点てさせてしまう
これまで稽古会で「感応性」というものを提示してきたはずなのに
お茶という、設定された「場」における「お道具」を介した稽古によって
より「感応」の世界が明示されていくのは新鮮である
それにしても、雨に濡れた庭を望みながらお茶の稽古ができるとはなんと贅沢な
雨の中、道具を運び入れるのは大変だったが、この梅雨の時期にお茶の稽古を入れて正解だった
雨の中、道具を運び入れるのは大変だったが、この梅雨の時期にお茶の稽古を入れて正解だった
私も亭主の座にすわり、気持よくお茶を点てさせていただいた
いつかお茶について書いたものがあったはずだと探してみたらここに置いていた
興味のある方はどうぞ
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