2017年12月30日土曜日

12月の読書

米原万里* KAWAIDE夢ムック 2017
芸人と俳人* 又吉直樹x堀本裕樹 集英社 2015
「日本の伝統」の正体* 藤井青銅 柏書房 2017
発酵菌ですぐできるおいしい自由研究* 小倉ヒラク あかね書房 2106
語る兜太-わが俳句人生* 金子兜太・黒田杏子 岩波書店 2014
いま、兜太は* 金子兜太・青木健 岩波書店 2016
寂しい生活 稲垣えみ子 東洋経済新報社 2017

今年の発酵三部作 どれもよかった
 一汁一菜でよいという提案 土井善晴 グラフィック社 2016
 あなたの体は9割が細菌  アランナ・コリン 河出書房新社 2016
 発酵文化人類学      小倉ヒラク 木楽舎 2017

2017年12月28日木曜日

入力減

そうそう、
今年は入力が減った一年でもあった

まず、食べる量が減った
お盆過ぎ、急にものが食べられなくなり、
えっ、とうとうオレも胃がん?と連想してしまったのは、
父も妻も死亡診断書にそう書かれていたせい
なんだ食べなくてもいいんだ、と気づくまでひと月かかった
食いものの嗜好も変化して、肉いらない、豆腐と納豆と野菜があればいい
そんな風に変わってしまった
えっ、ベジタリアンになっちゃうのオレ、みたいな感じ

読書量も減った
活字を追いかける集中力がなくなった
耳も遠くなり、ダン先生の講義が聞き取れなくなってきた
危機感を覚えないわけではないが、
このまま人の話が聴こえなくなってしまったら「もう無敵だな」とも思う
でも、不便

動く範囲も狭くなった
毎月の石川行き、オフ毎の東京行きはルーティンになってるからさほど苦痛ではない
ただ、普段の生活範囲は随分と狭まった
観光客気分が抜けたというか、京都人になってきたというべきか
でも、この好奇心の低下というのは、いかんですね
そういうときには、なぜかよそから人が訪ねてきて、一緒に出かけることになる
ありがたいことです

娑婆

今年一年をひとことで言いあらわせば
娑婆に帰ってきた、
ということに尽きる

じゃあ、これまでどこに行ってたんだ?
という話になるのだけれど、
きっと、娑婆じゃないどっかに行ってたんだろう

娑婆という字、両方に「女」がいる
せうそこ女子チームにはほんと助けられた
娑婆に帰ってくるには女の人の力が必要だった

娑婆じゃないどっかに行きっぱなしでいるのも悪くない
そう思っていたのに、娑婆で生きろと引き戻された
そんなふうに感じている年の暮れです

2017年12月20日水曜日

布あそび

なぜか先送りにしていた来年のカレンダー購入
東京から帰ってきたら、「布あそび」と名付けられた立派なカレンダーが届いていた
企画・編集・デザインは、せうそこチーム三人組
なんて有能な人たち
そういえば、この夏、古布コレクション・カレンダーの話を聞いていたことを思い出した
熊谷はるさんという、画家熊谷守一のご長男のお嫁さんに当たる方が集めた古布の写真が潤沢に使われている
これでやっと来年のことを考えられそうだ


2017年12月3日日曜日

韓国で撮ってもらった写真を娘に送ったら、
「おじいちゃんに似てきたね」という返信が届いた
そうなのだ、なんか急にオヤジの風貌に似てきたと、自分でも思う
出かけた時、ショーウインドウに映る自分の姿が、オヤジそっくりなことに驚く
似てきたのは風貌だけではない
書斎のテーブルの乱雑さといったものまで似てきている
オヤジが座っていた津山の家の居間や江戸川の居室の惨状と同じものが再現されつつある

父の喪は一年で明けた
遺句集を編んだら、すっかり気が済んだ
妻の喪が明けるには三年かかった
せうそこの会でみとりについて話し、それが印刷物になって戻ってきたら、
前に進むしかない、という覚悟が生まれた
喪が明けるとは、忘れてしまうことではなく、
逝ったものたちとの記憶を忘れるほどに同化してしまうことなのだ

今年も、というべきか、何人もの友人知人たちがなくなっていった
つまり、縁の遠近はあるにせよ、僕らは、常に喪に服している

2017年12月2日土曜日

フロンターレ優勝!

川崎フロンターレがJ1で優勝
こんな嬉しいことはない
嬉しいというより安堵したという方がちかい

等々力競技場にはじめて足を踏み入れたのは1999年秋
まだ川崎がJ2を戦っていたころで、対戦相手は札幌
その札幌を目当てに行ったのだった
場所もよく分からず、職場のあった二子玉川からタクシーに乗った

私の住んでいたのは東急田園都市線のあざみ野
サッカー観戦には便利な場所で、日産スタジアム、国立競技場、等々力競技場に
1時間以内にたどり着けた
最初のサッカー観戦は、国立だったか三ツ沢だったか定かではないが、ファンとして定期的に通いはじめたのは、横浜市民ということもあって日産スタジアムだった
ただこの日産スタジアム、W杯の決勝のために造られたハコで、やたらでかい
いちばん安い自由席だと、ビルの屋上からピッチを眺めているようで、選手は豆粒ほどにしかみえない
おまけにサッカー専用でなく、陸上競技用のトラックがピッチの周りを囲んでいる
最新鋭の巨大スクリーンと音響を備えていたが、サッカーそのものを観るには適さない

これに比べると、等々力はのんびりしていた
トラックで囲まれている分、ピッチは遠いが、二階席までしかない
J2の時代だったから、観客席にも余裕があり、1万人入ることはまれ
競技場に向かっていると、ちびっ子が自転車で駆けつけてくるわ、家族づれがのんびり歩いてくるわで、とにかくゆるい
サポーターも優しい
浦和や鹿島の応援風景に比べると小学生のようにみえた

それでも、川崎がJ1に上がり、力をつけてくるにつれ、サポーターの数も増えていった
印象に残っているのは、ジュニーニョ、我那覇、テセ、川島といった選手たち
もちろん中村憲剛
監督も石崎、関塚、風間と変わっていった
チームはだんだん中村憲剛を中心に回りはじめる
それでも、風間監督に代わった時の変化は大きかった
ナビスコ杯の決勝戦は2度国立に見に行ったが、結果は準優勝

関西に越してきて丸二年
サッカーとは縁遠くなってしまったが、川崎の動向はいつもチェックしてきた
小林悠をキャプテンにしたのは正解だったようで、線が一気に太くなった
小林悠は、なんと娘の通った高校のサッカー部員で同学年
2年続けて高校サッカー全国大会の応援に出かけていった記憶がある
まさか、あの小林選手がJ1得点王になるなんて

ともかく、嬉しくて安堵している