2019年3月28日木曜日

あとがき

せうそこ冊子版1号〜3号はすでになく、新規に手にすることは難しそうなので、あとがき部分だけ、このブログに載せておくことにします。

【せうそこ1 「書」 平成28年11月発行】
身体教育研究所で指導者と呼ばれている人たちは研究員が30人と少々。動法教授資格者を含めれば70名くらいになるのか。稽古することが人生になってしまった人たちで、もうご愁傷様というかご同慶の至りというか、こういう仲間と巡り会えたことは非常に有り難い。ただ、夫々がどのような経緯で整体協会に、身体教育研究所に、あるいは野口裕之にたどり着いたかという、「前史」については、問わない、語らない、詮索しないという不問律があるが如く、お互いに知らない。まるで前科者の集まりですね。でもね、本当はこの前史が面白いのです。夫々の前史の中で異化されていたものを裕之先生が呈示される稽古を通して同化させていくかことが、指導者ひとりひとりのテーマになっている。今回のせうそこ#1の中で、安森さんに「芸術性は?」としつこく訊いていたのは、ボクの中で、安森さんは作家(陶芸か絵画かわからないけど)にならないで整体指導者になってしまった人、という印象あるいは予断をもっていたから。このことに、会を終えてから気づいた。もう少し、その転身の経緯を聞いておけばよかったな。

【せうそこ2 「育つ」 平成29年3月発行】 
電灯のスイッチを指で押さないでオンにする、という稽古を大真面目でやったことがある。刺戟ー反応関係を忌避するという趣旨なのだが、動法初期の時代であったとはいえ、あまりに稚拙で思い出すだけで恥ずかしい。今ならどうするだろう。検索窓にキーワードを入力することなく検索結果を得るというのはどうだろう。結局、三十年経っても、僕らは刺戟ー反応関係から脱することができていない。いや、インターネットの登場で、より内面化してしまったのではなかろうか。問いを発するという行いがすでに刺戟と化し、即座の答えが反応として戻ってくることを期待する。そんな、便利でせわしない時代に「育つ」を語るのはむずかしい。「整体三代」という言葉は育児講座の頃からダン先生がよく使われていたもので、整体が当たり前のものとなるまで三世代かかりますよという意味。身体教育研究所がはじまって三十年ということは、ようやく一世代分の時間が経過し、次の世代に引き継がれつつあるという段階。三代百年という時間軸は、「君一人ジタバタしてもできることは限られてるよ」と言われているようで淋しくもあり、また、このような時間軸が与えられることで安堵している私もいる。安森さんや大松さんと一緒に百歳まで稽古するしかなさそうだ。

【せうそこ3 「みとり」 平成29年7月発行】
 喪に服すとは逝った者たちと共に暮らしていくことであるが、それは同時に、逝った者たちに見守られながら生きているということであった。三年の喪が明けようとしているいま、ぼくは、その庇護を離れ、再び歩き出さなくてはならない。なんと難儀なことか。かつて両親の住む岡山の実家を離れるとき、まだ足を踏み入れたことのない異国での生活に心を踊らせていた。京都から東京に移り住むときもまた、ぼくの前途は洋洋としているように思えた。妻を送り父を送り娘を嫁がせ、単身京都に舞い戻ってきたが寂しさを感じることはなかった。そう、ぼくはまだ妻と父の庇護の中にいた。しかし、もう喪が明ける。かくして、ぼくは再び歩き出さなくてはならない。
 「みとり」をせうそこのテーマにしたいと告げられたのは一年前の春のことだったが、この私的領域の出来事について話すことには戸惑いと抵抗があった。ところが、私はすでに「出立記」をブログに記しており、そもそも「みとり」がテーマとして浮上した遠因はこの記事に遡る。結局、一年間、みとりについて考えつづけることになり、三月末、三回目のせうそこを迎えた。やがて「喪が明ける」ことを悟ったのは、この会を終えたときである。