ここからいきなり整体の話になる。ここでいう整体とは、言うまでもなく、野口晴哉の整体のことであり、身体教育研究所の整体のことである。ただ、整体を学んでいる人たちといっても千差万別で、「私薬飲んでないから整体人」という人から、「健康なんてクソじゃ」という稽古場の人まで様々。それはそれでいいと思う。単に薬を飲まないということ一つとっても、無駄な医療費を増やしてないという意味で社会に貢献しているはずなのに、世間的には反社会的存在であったりする。へんな世の中だ。それはともかく、なぜ整体の人は薬を飲まないのかというあたりから、体験と教育というところに話を移していくことにしよう。
たとえば、晴哉先生の「風邪の効用」を読めば、人が風邪を引き、熱を出し汗をかき、その後の低温期を上手に経過すると体はリフレッシュされると書いてある。それをただの健康法とだけ理解する人は多いのだが、教育の見地から見れば、実に重要なことが示唆されていることが分かる。つまり、「人は体験をどのように同化させていくか」のひな形がここに示されている。風邪を例えばインフルエンザとか外因性のものとしよう。人の体とウイルスが衝突するわけですね。発熱はその境界線上で起こる。疫学的な発熱のメカニズムはいくらでも説明可能であろうが、人が何かを経験するということは、そこに他者との邂逅というものがある。その他者というのはウイスルであっても、人間であっても構わない。それではウイルスや細菌を擬人化しすぎでしょ、という意見が出てくるかもしれないが、人を一個の統一体と捉えれば、これは擬人化でもなんでもなくて、当たり前のことである。「体験は他者との邂逅として生まれる」という定義はそう的は外してないはずだ。
問題は「人は体験をどのように同化させていくか」という点なのだ。晴哉先生曰く、風邪を引いたときは、発熱ー低温期ー平温に戻る、という過程を経ることが自然であり、それを経過すれば新しい体になると仰っている。活元運動の場合の、弛緩ー過敏ー排泄も同様である。つまり、「新しい体」とは、体験を同化した身体という意味。そう考えれば、この同化の経過を邪魔するものとして薬の服用があったりするわけだ。そう、整体の人とは、薬を飲まない人のことじゃなくて、自分の中で起こっている同化のプロセスを心静かに見つめられる人のことをいうのです。
そう考えると、「体験学習」ってものの難しさというのも浮き彫りにされる。体験主義がただの現場主義だったら、学習者を混乱させてお終いということになりかねない。その体験をどう吸収させるかという部分が制度としてないと成り立たない。1で書いた学校の日本センターで5年仕事したのだが、いま振り返ると、カウンセラー的な仕事が多かった。つまり、この同化のプロセスの部分のケアをよくわからないままやっていた訳だ。
・異文化を通してみえてくるもの 月刊全生 1987年