【同化された体験としての体】
ここまでは、風邪を例えに体験と身体ということを書いてきたが、食べ物の消化吸収の話の方が、わかりやすいかもしれない。食事をエネルギー補給だと思っているひとは多い。それにしても、人間の体を機械に例える習慣はなんとかならないものか。分かり易いといえばその通りなのだけれど…。思春期の子供たちの底なしの食欲などをみていると、食い物が体を作っていくという実感はある。ただ、栄養学的に足りないものを足すという考え方は偏りがすぎる。むしろ、食べるという体験、つまり、食べものという他者との邂逅によって生まれた体験をを同化することで体が作られていくという説明のしかたのほうが納得できる。しかも、料理って、材料をそのまま食ってるわけではなくて、料理する人が介在している。材料にしても、それを育てた人、あるいは捕まえた人だっている訳だ。料理する人だって、料理する過程で、食材と出会い、なんらかの体験をし、その体験が料理に反映されてて、それを僕らは口に入れ、そこでまた、体験が生まれて…という風に、体験の連鎖として僕らは食事をしている。じゃあ、体験の同化によって僕らの体が形成されているとしたら、その体の中に、当然のことながら「他者性」というものを認めていかざるを得なくなる。
もっとも体には異化の働きもある。同化する見込みのないものは異化し、排除する。打撲ってありますね。打ち身。整体では打撲を恐れる、という言い伝えがあるけれど、この打撲ってなんだろう。打撲とは同化されないまま残っている未消化の体験と理解すればよいと思う。異化されたまま潜在している体験。体の基本的なはたらきは同化にあるから、季節の変わり目など、眠っている打撲が起きだしてくる。つまり、同化しようという働きが起こってくる。実際のところ、打撲のない人間はいないわけで、皆それぞれ古傷を抱えて生きている。打撲もうそうだし、挫折もそう。つまり中断されれ実現されなかった欲求の痕跡が、体中に散らばっている。それらをひとつひとつ同化のプロセスに流し込んでいく。これもまた整体の愉しみと呼べるかもしれない。つまり、同化のプロセスが進行することによって、体は刻々と刷新されていき、次々と新しい視点を得て、昔の体験そのものもバージョンアップされてくるのだから。自分探しとか、いまだ流行っているらしいけれど、新し自分を見つけるって、すごく簡単。古傷ひとつを同化しちゃえば、もうそこに新しい自分が現出するのですよ。
(あらためてお断りするまでもないと思いますが、ここで私がつらつら書いているものの全ては晴哉先生や裕之先生の受け売りです。もっとも誤理解ということはあるかもしれず、この誤理解の部分にだけに私のオリジナリティがあるということになります。)