【かた以前】
かつて、カタとは「型にはめる」ものでしかなく、嫌悪の対象であった。自分の受けた教育は鋳型によるJIS規格製品生産ラインであると卒論の中で断罪しているほどである。この場合のカタとは学校教育を工場に例えたものであり、自分自身はそのラインの生産物であるという比喩である。この近代的大量生産モデルの問題が、カタこそが日本文化の特質であるという言説と混同され、その分別を20代の私はつけることができなかった。いま振り返れば、70年代に流行った日本人論ーその大半は『菊と刀』に代表される外からの視線を逆輸入したものなのだがーの影響を少なからず受けていることがわかる。なんども言及している某実験的大学ーFreinds World Collegeというクエーカーのはじめた大学で今はLong Island Universityのプログラムとして存続しているーの中ではリベラル急進を標榜していただけに、文化人類学的アプローチを援用することは当然の如く行われていた。当時、そこのアメリカ人学生に、「日本の教育は盆栽みたいだ。伸びようとするものをチョキチョキ切り刻んでいく」と言われ反論できずに悔しい思いをした記憶が40年近く経った今でも残っている。この近代生産モデルとしてのカタと文化の伝承装置としてのカタ。この混同はなぜ起こってしまったのだろうか。それとも、後者を前者に置き換える、あるいはすり替えるという行為は意図的に行われてきたのだろうか?整体におけるカタの問題というのは、後者に属するわけだが、このすり替えの問題をときほぐしておかないと、先に進めない、というか、すぐ元の混乱に戻ってしまうような気がするのだ。これは宿題。裕之先生の論文(The Idea of the Body in Japanese Culture and its Dismantlement)ももう一度読んでみることにしよう。日本語で読むとすれば、『これは教育学ではない』所蔵の文章か。