さてどこから書いていくべきか。まず身体教育研究所25年の歴史からとき起こすことで、自分たちがどこを目指しているのかが明らかになるのではないか。そうすれば、自ずと当日の稽古の中身も定まってくるのではなかろうか。以下は試稿。
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整体は割に早い段階からヨーロッパに入ってきているようです。整体協会の古い機関誌ーzenseiといいますーなどを読んでいますと、40年くらい前、整体協会の創始者である野口晴哉先生ご存命の頃から、すでに、津田さんという方を中心にヨーロッパで整体が広がっていた様子が伺えます。津田さんは合気道もよくされた方のようですが、それ以外にも、ヨーロッパに留学していた音楽家を通しての広がりもあったようです。その晴哉先生は1976年にお亡くなりになり、その後を、晴哉先生のご子息たちが引き継ぎ、今日に至るまで整体協会の活動は続いています。
私の師匠は野口裕之(Hiroyuki)先生ー晴哉先生の次男にあたられる方です。晴哉先生がお亡くなりになった後、三男の裕介(Hirosuke)先生と一緒に、本部講師として指導者育成、会員指導に当たられてきました。今からちょうど25年前、1988年のことになりますけれど、裕之先生は本部講師を辞め、「整体法研究所をはじめます」と宣言しました。この整体法研究所は何年かあとになって、「身体教育研究所」と名前を変えることになります。この研究所が創設されたとき、たまたま私が一番身近にいたものですから、身体教育研究所の運営・マネージメントを任されることになってしまいました。以後、4年前に指導者として独立するまで、身体教育研究所の運営に携わってきました。
じゃあ、どうして、裕之先生は身体教育研究所なるものをはじめたのか? 野口晴哉という人は「天才」と呼ばれた人です。天才というのはやってみせることはできるが、それを説明できないーあるいは敢えてしない。学ぶ側は大変です。つまり、弟子たちは、見よう見まねで真似しようとするが、自分がやっていることに確証がもてない。これは、私なども整体を学び始めて30年以上たってしまいましたが、確証の持てなさ加減は同じです。指導者を育てる立場だった裕之先生にとって、これは切実な問題であったに違いありません。裕之先生は晴哉先生の技を理論体系化する役割を担わされていた訳で、それが、身体教育研究所の出発点です。
整体というと、活元運動、愉気、整体操法といったものを思い浮かべることが多いと思いますが、身体教育研究所の活動が始まって、これらに「動法(doho)」と「内観(naikan)」が加わります。動法とは「身体を動かしていく理(ことわり)」です。1911年生まれの晴哉先生と、戦後生まれ(1945〜)の我々は、身体の捉え方=身体観が異なっているのではないか、故に、異なった原理で体を扱っていたのではないか、という仮説からこの動法研究ははじまりました。年数にして一世代、僅か30年ほどの違いに過ぎませんが、この間、社会環境は大きく変化し、日本でいえば、戦後ー高度成長期を経ることで生活環境そのものが大きく変わりました。伝統的なものが打ち捨てられ、いわゆる生活の西洋化が進んだ時代でもありました。時代によって身体観は変化し、身体観の変化によって、身体の使われ方は変化する。野口晴哉研究からはじまった動法研究は身体観の研究に転じていきます。
現代を生きる人間にとっての身体観は科学的医学的身体観と呼びうるものでしょう。これはフランスにおいても日本においても共通しているのではないでしょうか。国民国家の誕生以来、そして工業化の進行とともに、外からの物差しで人間を測ることが常態化し、人はその客観的とされる数値によって形成される姿を内面化してきました。人は自由に感じることができるといわれても、その感じることが既に社会化されているのです。科学的思考の本家ともいえるフランスではどうなのでしょう? 文化の伝承というものを考えたとき、それを支えているのは共有された身体観ということになります。この「身体観」「動法」研究の成果は裕之先生の論文にまとめられていますので参照してください。
私たちが行っている「動法」というのは、狭義には日本人の間に伝わってきていたであろうとされる「身体観」を学ぶことと言えるでしょう。同時に、それは科学的医学的身体観以前のー前近代の「身体観」を学ぶことでもあります。私たちが25年間稽古してきた「動法」がフランスで紹介されることにどのような意義があるのか私にはわかりません。ただ、Nさんとのご縁で今回パリで稽古会が実現することのなったことを私自身とても嬉しくおもっています。これまで自明と思ってきた自分の身体の見方を問い直す機会になればと思います。
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と、ここまで書いてはみたものの、言葉足らずというか、トンチンカンな感じは否めない。少人数の会なので、ここまで大上段に構える必要もないのかも。続きはドイツで考えることにしよう。
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整体は割に早い段階からヨーロッパに入ってきているようです。整体協会の古い機関誌ーzenseiといいますーなどを読んでいますと、40年くらい前、整体協会の創始者である野口晴哉先生ご存命の頃から、すでに、津田さんという方を中心にヨーロッパで整体が広がっていた様子が伺えます。津田さんは合気道もよくされた方のようですが、それ以外にも、ヨーロッパに留学していた音楽家を通しての広がりもあったようです。その晴哉先生は1976年にお亡くなりになり、その後を、晴哉先生のご子息たちが引き継ぎ、今日に至るまで整体協会の活動は続いています。
私の師匠は野口裕之(Hiroyuki)先生ー晴哉先生の次男にあたられる方です。晴哉先生がお亡くなりになった後、三男の裕介(Hirosuke)先生と一緒に、本部講師として指導者育成、会員指導に当たられてきました。今からちょうど25年前、1988年のことになりますけれど、裕之先生は本部講師を辞め、「整体法研究所をはじめます」と宣言しました。この整体法研究所は何年かあとになって、「身体教育研究所」と名前を変えることになります。この研究所が創設されたとき、たまたま私が一番身近にいたものですから、身体教育研究所の運営・マネージメントを任されることになってしまいました。以後、4年前に指導者として独立するまで、身体教育研究所の運営に携わってきました。
じゃあ、どうして、裕之先生は身体教育研究所なるものをはじめたのか? 野口晴哉という人は「天才」と呼ばれた人です。天才というのはやってみせることはできるが、それを説明できないーあるいは敢えてしない。学ぶ側は大変です。つまり、弟子たちは、見よう見まねで真似しようとするが、自分がやっていることに確証がもてない。これは、私なども整体を学び始めて30年以上たってしまいましたが、確証の持てなさ加減は同じです。指導者を育てる立場だった裕之先生にとって、これは切実な問題であったに違いありません。裕之先生は晴哉先生の技を理論体系化する役割を担わされていた訳で、それが、身体教育研究所の出発点です。
整体というと、活元運動、愉気、整体操法といったものを思い浮かべることが多いと思いますが、身体教育研究所の活動が始まって、これらに「動法(doho)」と「内観(naikan)」が加わります。動法とは「身体を動かしていく理(ことわり)」です。1911年生まれの晴哉先生と、戦後生まれ(1945〜)の我々は、身体の捉え方=身体観が異なっているのではないか、故に、異なった原理で体を扱っていたのではないか、という仮説からこの動法研究ははじまりました。年数にして一世代、僅か30年ほどの違いに過ぎませんが、この間、社会環境は大きく変化し、日本でいえば、戦後ー高度成長期を経ることで生活環境そのものが大きく変わりました。伝統的なものが打ち捨てられ、いわゆる生活の西洋化が進んだ時代でもありました。時代によって身体観は変化し、身体観の変化によって、身体の使われ方は変化する。野口晴哉研究からはじまった動法研究は身体観の研究に転じていきます。
現代を生きる人間にとっての身体観は科学的医学的身体観と呼びうるものでしょう。これはフランスにおいても日本においても共通しているのではないでしょうか。国民国家の誕生以来、そして工業化の進行とともに、外からの物差しで人間を測ることが常態化し、人はその客観的とされる数値によって形成される姿を内面化してきました。人は自由に感じることができるといわれても、その感じることが既に社会化されているのです。科学的思考の本家ともいえるフランスではどうなのでしょう? 文化の伝承というものを考えたとき、それを支えているのは共有された身体観ということになります。この「身体観」「動法」研究の成果は裕之先生の論文にまとめられていますので参照してください。
私たちが行っている「動法」というのは、狭義には日本人の間に伝わってきていたであろうとされる「身体観」を学ぶことと言えるでしょう。同時に、それは科学的医学的身体観以前のー前近代の「身体観」を学ぶことでもあります。私たちが25年間稽古してきた「動法」がフランスで紹介されることにどのような意義があるのか私にはわかりません。ただ、Nさんとのご縁で今回パリで稽古会が実現することのなったことを私自身とても嬉しくおもっています。これまで自明と思ってきた自分の身体の見方を問い直す機会になればと思います。