2021年1月30日土曜日

1月の読書

バウルを探して[完全版] 川内有緒・中川彰 三輪舎 2020
  5年前文庫本版で読んでいたはずなのだが、今回の本は読書体験としてまったく別物で、筆者が「完全版」と呼んでいる意味が理解できる。 
我が内なる韓国 四方田犬彦 作品社 2020
パッチギ!対談篇* 李鳳宇・四方田犬彦 朝日新聞社 2005
法廷通訳人* 丁海玉 角川文庫 2020
日本の異国* 室橋裕和 晶文社 2019

2021年1月28日木曜日

下駄

その美しさに目を奪われた
小ぶりな桐の二重曲面一本歯足中下駄
これって芸術品じゃないか



2021年1月24日日曜日

ユズル界

1977年にいきなりワープしてしまったことで、封印していたものが動き出し、ちょっと困っている。少し落ち着いたので 「忘れてもいいように」に戻ります。そう、第一期の話でした。 

 それにしても渾沌の1977年。当時のぼくはといえば、京都の中の外国人コミュニティの中に棲息していて、どうすれば、日本社会に入って行けばよいのだろうと試行錯誤していた時期にあたる。そういう時期に無国籍な空気をまとったユズルさんに出会えたというのは幸運だった。入口は一般意味論(p.168-)とGDM(p.100)。ところが一般意味論セミナーというのが曲者で、みどりさんがあとがき(p.294)にも書いているように、「詩の朗読会、フォークソングのコンサート、ワークショップ、活元会、エンカウンターグループなどに参加する必要があります」という代物。そして、当時の私の渾沌に油を注いだのが、この付随物たちだったのです。 

輸入業者であるユズルさんは、海外から講師を呼んでボディワーク系のワークショップを70年代の後半から80年代にかけて開くようになる。それらの会に参加したり、お手伝いすることで、ぼくの体に対する関心は強くなっていたように思います。と同時に、本格的に勉強をはじめていた整体と理念、アプローチのちがいが気になりはじめる。最終的に第一期は、ぼくが整体協会に就職するために東京に移る1986年で終わることになります。東京に移ってから、ぼくはワープロを使った個人通信を出しはじめたのだけれど、その第一号(1986.9.16)にこんな風に書いています。  

整体協会での、最初の一月は、日本社会をテ-マにした文化人類学的フィ-ルドワ-クをやってる気分でした。10年前なら、反撥しかできなかったろう事柄を、自分の反応のしかたも含め、楽しみながら観察できました。「英語世界から敬語世界」への突入、とでも呼びますか。

振り返れば、京都での10年は、ぼくにとって自力でこの世界に踏み入っていくための長い長い揺籃期・適応期であったのか、そんな風に思えてきます。その揺籃期の少なくない時間を「ユズル界」(いま思いついた新語です)過ごしていたことは間違いありません。

この本の元になっている「ユズルにきく」会は、この「ユズル界」がどのように形成されてきたのか?ということを探究してきた場ということになります。

なりそこねる

今でこそ整体指導者って呼ばれているけれど、今のように身体教育研究所の技術研究員という肩書きで仕事しはじめたのは56歳のときで、たかだか12年しか経っていない。その前に、事務屋と稽古担当の二足の草鞋時代が十年位あったけれど、自分の足で立つという意味では、ぼくの指導者としてのキャリアは12年だと思っている。 

 最近、70年代の自分のノートを読み返す機会があった。その当時、つまり二十代半ばということになるのだけれど、いろんなことに首突っ込んでいる私がいて、英語で身を立てようとしていたのか、社会活動家を目指そうとしていたのか、方向が定められないでいる自分の姿が見えてきた。つまり、いまの自分というものの後ろには、なにかになりそこねた大勢の私がいる。 

 長く生きていると、そのなりそこなった自分、中途で止まってしまった自分自身の関心というものが、20年経ったころ、いきなりその時の自分と結びつくといった経験が1回や2回でなく身に起こると、人生無駄なことってないな〜と思えるようになってくるのだけれど、当時の自分からすれば、それはある種の挫折として記憶されているわけで、往々にしてその記憶は封印される。でも、体って覚えてるもんなんだよね。 

 「私とは異化されたものの集合体である」、と言った(と私は理解した)のはわが師匠だけれど、過去の異化されたものをひとつひとつ同化しようとするのが、生きていくということの実態かもしれない。新たな異化は当然の如く日々起こり、それらを同化しつつ、より同化できるような技を学び、古い異化にも処していく。生きていくというのは、なかなか大変な営みですね。

1977年

来週、ユズルさんの「忘れてもいいように」のオンライン読書会をやるというので、ちょっと覚え書きを作っておこうと、ユズルさんとの歴史を紐解いていった。巻末の年表によると、ぼくとユズルさんの付き合いは1976年の一般意味論大セミナー(フレンズ世界大学)にはじまっている。ぼくが東京に移る1986年までの10年が第一期。そこから、ほぼ30年空いて、2015年、ぼくが京都に戻ってきてからが第二期。ここでは、第一期について書こうと思うけれど、年齢でいえば、角南青年24歳、ユズルさん46歳からの十年間ということになる。いまや、68歳と90歳。

一般意味論大セミナーのチラシとか残ってないかしらと、デジタル化してある1976年のノートを見ていくのだが、いっこうに出てこない。ひょっとして翌年なのかもしれないと1977年のノートをめくっていくと(実際にはスクロースするわけだけど)チラシが一枚出てきて、その一番下に一般意味論大セミナーが予告されている。いきなり、年表の訂正が必要になってしまった。

ついでに、もう少し下までスクロールしていくと、こんなのまで出てきた。「学校を超える教育論」? まったく記憶から抜け落ちている。そのまま突っ走っていれば、教育業界で飯が食えるようになっていたかもしれない。これまで開いたことのないノート。読み返しているうちに、ユズルさんとのことは吹っ飛んで、1977年にタイムワープしてしまった。4月には三里塚、6月には韓国、7月に一般意味論の合宿があって、8月にはヤマギシの特講、GDMのセミナーに続けざま出て・・・。川嶋先生の活元会に出はじめたのもこの年らしい。いったいどうやって生活を回していたんだろう。もう混沌の極み。

こういう混沌の年にユズルさんと出会っているのでした。






2021年1月15日金曜日

お庭を見にいく

快晴
お散歩日和
等持院のわが家を出て西に向かう
笑福亭さんの前を通り、妙心寺北門をかすめ、双ヶ丘の北を抜ける
歩いてみないと位置関係ってのはわからないもものだ
宇多野、鳴滝、山越、嵯峨野…
駅名やバス停の名前で覚えていた地名が繋がりを持ってくる
ゆるい坂道を下り、丸太町通をつっきり、山陰線の下をくぐる
京福の嵐山本線にぶつかったとおもったら、もう車折神社
境内を通り抜け、さらに西に歩くと、今日の目的地である鹿王院
京都のお寺の庭を見にいくには、今がベストのタイミングかもしれない
数年前の喧騒が嘘のように観光客がいない
客殿からお庭と対座
小一時間も座っていただろうか
僕ら以外、誰もいない
嵯峨嵐山駅まで歩き、お茶する
京福電鉄を乗り継いで帰宅
所要20分




チロルチョコかと思ったよ

2021年1月12日火曜日

少人数稽古

大雪の石川から無事帰還。結局、金沢で余分に2泊して帰ってきました。
さて、等持院での稽古再開です。
集団稽古ーといっても、定員3名の少人数稽古ですがーを復活させます。
まず手はじめに、今月は「筆動法」と「稽古としての活元運動」。
両方とも5回シリーズくらいでやりたいのだけれど、とりあえず単発開催。
はじめての方もどうぞ。
筆動法、活元運動については、ブログでも折に触れて書いているので、
下記リンクから読んでみてください。

1/15  13時〜16時 筆動法
1/25  13時〜16時 稽古としての活元運動
会費 3000円 要予約

2021年1月10日日曜日

1月10日朝

◾️昨年は、COVID-19に翻弄された一年でしたが、この様子だと、今年一年、またコロナと付き合うことになりそうです。 ◾️大晦日新年はは京都で迎えたものの、元旦には孫たちの住む千葉佐倉に空席の目立つ新幹線に乗って移動。一週間いて、緊急事態宣言の出た東京から今度は北陸新幹線で大雪の石川へ。白山稽古会が今年の稽古始めとなりました。 ◾️無事、稽古会を終えたものの、関西行きのサンダーバードは全て運休。結局、新年早々、足留めを食らうことになってしまいました、で、この文章は、金沢の宿で書いています。京都に帰り着くころには、関西にも緊急事態宣言が出ているのかもしれない。 ◾️東京五輪のごちゃごちゃに巻き込まれるのは嫌だと京都に越して来たはずなのに、なんで古希を迎えようとする老人(数えでいけばそうなります)に静かな隠遁生活を送らせてくれないんだと、悪態のひとつもつきたくなってきます。ともあれ、しばらくの間、息をぜいぜい言わせながら走ることになりそうです。◾️一夜明けても(1/10午前)北陸線は動いてなさそうです。今日もこのまま金沢に居ることになるのでしょうか。贅沢をいえば、缶詰になるなら温泉宿がよかった、などとつぶやいています。