2021年1月24日日曜日

なりそこねる

今でこそ整体指導者って呼ばれているけれど、今のように身体教育研究所の技術研究員という肩書きで仕事しはじめたのは56歳のときで、たかだか12年しか経っていない。その前に、事務屋と稽古担当の二足の草鞋時代が十年位あったけれど、自分の足で立つという意味では、ぼくの指導者としてのキャリアは12年だと思っている。 

 最近、70年代の自分のノートを読み返す機会があった。その当時、つまり二十代半ばということになるのだけれど、いろんなことに首突っ込んでいる私がいて、英語で身を立てようとしていたのか、社会活動家を目指そうとしていたのか、方向が定められないでいる自分の姿が見えてきた。つまり、いまの自分というものの後ろには、なにかになりそこねた大勢の私がいる。 

 長く生きていると、そのなりそこなった自分、中途で止まってしまった自分自身の関心というものが、20年経ったころ、いきなりその時の自分と結びつくといった経験が1回や2回でなく身に起こると、人生無駄なことってないな〜と思えるようになってくるのだけれど、当時の自分からすれば、それはある種の挫折として記憶されているわけで、往々にしてその記憶は封印される。でも、体って覚えてるもんなんだよね。 

 「私とは異化されたものの集合体である」、と言った(と私は理解した)のはわが師匠だけれど、過去の異化されたものをひとつひとつ同化しようとするのが、生きていくということの実態かもしれない。新たな異化は当然の如く日々起こり、それらを同化しつつ、より同化できるような技を学び、古い異化にも処していく。生きていくというのは、なかなか大変な営みですね。