最近、70年代の自分のノートを読み返す機会があった。その当時、つまり二十代半ばということになるのだけれど、いろんなことに首突っ込んでいる私がいて、英語で身を立てようとしていたのか、社会活動家を目指そうとしていたのか、方向が定められないでいる自分の姿が見えてきた。つまり、いまの自分というものの後ろには、なにかになりそこねた大勢の私がいる。
長く生きていると、そのなりそこなった自分、中途で止まってしまった自分自身の関心というものが、20年経ったころ、いきなりその時の自分と結びつくといった経験が1回や2回でなく身に起こると、人生無駄なことってないな〜と思えるようになってくるのだけれど、当時の自分からすれば、それはある種の挫折として記憶されているわけで、往々にしてその記憶は封印される。でも、体って覚えてるもんなんだよね。
「私とは異化されたものの集合体である」、と言った(と私は理解した)のはわが師匠だけれど、過去の異化されたものをひとつひとつ同化しようとするのが、生きていくということの実態かもしれない。新たな異化は当然の如く日々起こり、それらを同化しつつ、より同化できるような技を学び、古い異化にも処していく。生きていくというのは、なかなか大変な営みですね。