「エネルギーと公正」が出版された1974年は僕にとっては特別の年で、元旦をサンタフェで迎え大晦日をケララで過ごすという、人生最大の移動をした一年だった。インドで何ヶ月か過ごすうち、なぜか、僕は一生自家用車に乗ることはないだろうという確信を持ったのだった。20代後半、教習所に通って普通免許は取得したものの、いっときバイクに乗ってた時期をのぞき自家用車を持つことなく、今に至っている。おそらく、この先も自家用車とは無縁だろう。その分、関東で暮らしていた28年間、電車利用通勤者として、電鉄会社への隷属を強いられていたこともたしかである。
さて、「エネルギーと公正」である。
イリイチの文章には、頻繁に「限界」「境界」という単語が出てくる。「一人あたりにエネルギー量がある境界以下ならば、モーターは社会の進歩のための条件を改善する」(p.16)。「わたしが説きたいのは、一人あたりのエネルギーがある適正な水準をこえると、いかなる社会もその政治態勢や文化的環境が必然的に退廃するということなのである」(p.17)。では、イリイチが考えているエネルギー量の境界ー交通でいえば速度はどのあたりにあるのかというと、「公共の運輸機関の速度が時速15マイル(24キロ)をこえて以来、公正が低下し、時間と空間の不足が顕著になった」(p.23)と書いているように、人が自転車で移動できる速度の上限のあたりを想定していることがわかる。さて、この数字をみて、腑に落ちるか、それとも違和感を覚えるか。自分の速度中毒度を測る目安にはなりそうだ。ふたつ目の文章の「退廃」という訳語は、原文ではdecayなので、むしろ「劣化」という単語を充てた方が意味はわかりやすくなる。ここでいう退廃、劣化という言葉が意味するところは、民衆の力が専門家に吸い取られていく「技術権力体制(テクノクラシー)による支配」(p.14)を意味している。この部分こそがイリイチの真骨頂といえるし、例えば、グレーバーの「ブルシットジョブ」などに通じていくものだろう。
この稿をはじめるにあたり、コロナ=速度問題だと書いた。でなければ、イリイチの本を読み直そうとも思いつかなかっただろう。やっぱり、何人かで一緒に読んだ方が面白そうだ。