月末三日間の稽古は「聴く」稽古でもある。おそらく稽古時間の半分は講話に充てられているから、その時間、僕はひたすらかすかに聴こえてくる師匠の声に耳を傾ける。基本、師匠の声は小さい。ピンマイクとアンプで拡大された声もなかなか僕には届かない。音のかたまりとしてやってきても、それが言葉として像を結ばない。断片的に聴こえてくる単語から、何について話されているのか類推していくしかない。まるで、圧倒的に語彙の少ない人間が外国語の海に放り出されたようなものである。僕の中にある三十年分の膨大なデータベースに照らし合わせて、内容を察そうとしていくのだが、無力である。もう、師匠の話は十分聞いたから、もういいではないかという兆なのだろうか。それでも三日間出ると、新しい発見があり、実際、身体も変わっていくから、苦行とはいえ、この稽古会を外すわけにはいかない。そもそも、この稽古会に出るために居を京都に移したのだから。かすかに聴こえてくる声をBGMに妄想の世界に入っていくことも多い。でも、全体的な集注感だけは増している。これもまたたしかなのだ。