久しぶりに総武線に乗った。ひと昔前なら、紙に印刷された広告が掲示されていた窓上の場所に液晶モニタが埋め込まれている。しかも三画面。数年前までなら、ドア上にあるだけだった液晶モニタが、車両全体に広がっている。つり革につかまって立っている乗客からすると否応なしに視線が広告の流れているモニタに向かわざるを得ない。紙の広告であれば、目を閉じれば消える。しかし、液晶画面の上で点滅する広告は目を閉じても消えない。これでは逃げ場がない。ちょっと吐き気がしてきた。
連れ合いが脱携帯電話を試みている。携帯は持ち歩かない。家にいるときも電源は入れない。連絡手段は家でんにする。携帯電話が普及したのは、ここ20年のことだから、時計の針をその時間巻き戻そうというわけだ。はじめて一週間ばかりたつが、「時間が増えた」とおっしゃる。たしかにそうかもしれない。一番影響を受けているのは私だ。彼女とのLINEでテキストメッセージをやりとりすることが消え、家でんを介しての音声通話と台所のメモ書きが伝言の手段となった。僕自身の時間も増えた。
総武線の電車の中で感じた不快感は、キューブリックの「時計じかけのオレンジ」の一場面を思い起こさせる。そう、瞼を無理矢理こじ開けられ、不愉快な映像に晒される矯正教育のシーンである。朝起きては、iPadを開けてメールをチェックする。大半は、無料登録したサイトからのメルマガ。これらをゴミ箱に入れる。ニュースアプリを開けて、最新ニュースを見ているうちに、有名人のゴシップ記事に誘導されていたりする。これではまるで、自ら進んで、総武線の広告モニタに見入っているようなものではないか。
デジタル機器との付き合いかたを検証中。