2023年5月24日水曜日

5月の読書

5月は読書月間になってしまった。
5日間くらいお遍路に出かけるつもりにしていたのだが、体の方がウンと言わない。草臥れて行きたくないのではなく、もっと長い距離を歩きたいという。困った。先月、高知市内にある33番札所雪蹊寺を打ち、ここから足摺岬を目指すことになるのだが、一息で足摺岬まで歩き、さらに愛媛側にたどり着くには相当の日数が要る。区切りうち遍路にとって、どこで区切るかはなかなか難しい。中途半端なところで区切ると、往復だけに時間を取られ、先に進めない。今月は、雪蹊寺から37番札所岩本寺までの80キロを歩く計画を立てていた。であるのに、体の方は嫌だという。仕方なく計画は先送り。ぽこんと一週間の空きが生まれてしまった。稽古を入れたとしても、急に人がやってくるはずもなく、暇である。
で、今月は読書月間となった。

劇場アニメーション「犬王」誕生の巻* 松本大洋・湯浅政明 河出書房新社 2022
平家物語 犬王の巻* 古川日出男 河出書房新社 2017
 映画犬王 の影響なのか、単に京都を訪れる観光客が増えている余波なのか、等持院 界隈が以前より賑わっている気がする。映画犬王 が興味深かったので、アニメの原作となった平家物語犬王の巻 を読むことにした。初めての古川日出男 。琵琶法師は滅びた平家の物語を奏で、小説家は歴史の闇に消えた犬王を甦らせる。

あなたのルーツを教えて下さい* 安田菜津紀 左右社 2022
フェンスとバリケード* 三浦英之・阿部岳 朝日新聞出版 2022
太陽の子* 三浦英之 集英社 2022

老いと踊り* 中島那奈子・外山紀久子編著 勁草書房 2019
 なぜ、僕らを発見するのは「踊り」の人たちなのだろう?という問いはずっとある。踊る人たちは、文化の違いも国境も越えて、すっとここにたどり着く。もちろん、室野井洋子、 田中敏行という仲間がいたからでもある。この本は2014年に開催されたシンポジウム「老いと踊り」をベースに、その後の論考を加えた構成になっている。大野一雄の73歳デビューが与えた衝撃の大きさから、この本が始まっているといってよい。こういう立体的な言語空間の存在は貴重。と同時に論考の緻密さを求めるがあまり、身体から離れていくという矛盾とどう向き合うかが問われることになる。

記憶のつくり方* 長田弘 晶文社 1998
深呼吸の必要* 長田弘 晶文社 1984

直立二足歩行の人類史 ジェレミー・デシルヴァ 文藝春秋 2022
 キューブリックの映画2001年宇宙の旅の冒頭シーンの映像は強烈だった。二本足で立つことで道具を使うことを覚え、獲物を捕らえられるようになった人類は生活圏を広げていった。そんなストーリーを刷り込まれてきた。ところが実際は、むしろ「狩られる」存在であったようで、樹上の安全地帯を生活圏とし、猛獣が昼寝する時間に樹上から降りて食料を探していたらしい。#直立二足歩行の人類史 の最初の章は、二足歩行にまつわる諸学説〜水生類人猿之説とか〜に充てられていて、それぞれ興味深い。
人類の祖先は、樹上ですでに二足歩行しており、その歩行によって平地を移動しはじめたのではないかというのが、この本で示される新視点。ゴリラやチンパンジーは人類と共通の祖先を持つが、枝分かれする前の段階ですでに二足歩行しており、ゴリラ、チンパンジーのナックルウォークは枝分かれした後で獲得されたものではないかというもの。人類の二足歩行の特徴を「膝の裏を伸ばし、腰を直立させて」と記述されると、?っと思い、それって既に西洋中心主義が混じってないか?と突っ込みたくはなる。古人類学者って世界に何人くらいいるんだろう。

歩く江戸の旅人たち2*  谷釜尋徳 晃洋書房 2023
辺境メシ*  高野秀行 文藝春秋 2018
異性装 中根千絵他 集英社インターナショナル 2023
嘘と正典* 小川哲 早川書房 2019
急に具合が悪くなる* 宮野真生子・磯野真穂 晶文社 2019
他者と生きる* 磯野真穂 集英社新書 2022

2023年5月2日火曜日

150歳

 高知での二泊三日の遍路行を終え、空路、千葉に移動。佐倉で三日間孫たちと遊び、さらに二子玉川へ。こんな周回コースを思いついた私はいったい何者なのだ。

 二日間の研修。顔ぶれは少しづつ入れ替わってきているけれど、稽古場創設以来のメンバーもしぶとく残っている。二人組の稽古。二人の年齢を足してみるー20年間事務局やっていたので、みんなの年齢はだいたい把握している。150歳越えのペアが二組。すごいなと思う。しかも嬉々として稽古してる。長老と呼ぶしかない人たち。二人足して100いかなければ若手。100越えて、やっと中堅どころ。稽古場はじまって、今年で35年。

 新しい稽古が提示されたとする。それでも、その新しい技法は基礎のひとつとして立ち現れる。そして、出現した新しい基礎によって、旧来の基礎とされて来たものは刷新され、新たなレイヤーを得て重層化していく。そして新たな生成の種となる。「基礎が進化する」とは、こういうことを云うのか。

 二子玉川から新横浜へ。乗り換えソフトで調べると、見慣れないルートが表示される。あざみ野経由でも、長津田経由でもなく、なぜか自由ヶ丘、大岡山経由。首都圏の交通事情は年々変化しているようだ。電車に乗る生活から離脱して、はや7年を過ぎた。

遍路2023 その4

 遍路をはじめて間がない頃、しょっちゅう杖を忘れた。休憩して歩きはじめ、しばらくしてから杖を置き忘れてきたことに気づく。ひどいときには、1キロも歩いてから気づき、取りに戻ったこともある。それでも、今年3月、一週間かけて、日和佐から室戸岬、さらに高知市の手前まで、お寺の間の距離にして150キロを通しで歩いたせいもあるのだが、杖が体の一部になり、置き忘れるということは、ほぼ無くなった。

 4月は高知市内のお寺を打った。JR土佐山田駅から歩きはじめ、29番国分寺から33番雪蹊寺に至る40キロほどの距離になる。32番の禅師峰寺から33番雪蹊寺に向かう道は、国道と並行している旧道を歩く。遍路地図で見ると、旧道がそのまま浦戸湾を越えて対岸まで伸びていたので、てっきり橋があるものと早合点していたのだが、歩いて渡るためには、湾の空中高くかかっている浦戸大橋を渡ることになるのだ。そして、遍路地図に載っていたのは、「渡し」であった。このことに気づいたのが、渡しが出る船着場まで20分くらいのところにあるコンビニで休憩していたとき。時刻表を調べてみると1時間に一本。次の出航時間には、速足で歩けば間に合いそう。あわててリュックを担いで歩きはじめたのだが、しばらくして、杖を忘れてきたことに気づく。苦笑しながら、来た道を戻る。なるほど、こういう時に杖を忘れてしまうのだ。

 僕のように居住地と四国を行ったり来たりしながら何回にも分けて歩くパターンを「区切り打ち」と呼ぶ。区切り打ちのよいところは、体力に応じて、時間の取れるところでサッと行き、さっと帰って来れるところにあるのだが、そのぶん、時間もお金もかかる。徳島を歩いている分には、「さっと」帰ってくることは可能なのだが、土佐路に入ると、前に進まない限り戻ってこれなくなる。つまり、一回あたりの日数は増えていく。高知から足摺岬に向けて歩きはじめると、ますます京都からとおざかり、最初と最後の移動だけで一日がかりになってしまう。どこで区切るか、それが問題だ。今回は雪蹊寺で打ち止めとする。欲張ってもう少し先まで歩くことも考えたのだが、再開するときのことを思うと、高知駅まで30分くらいで戻れるこのお寺にした。さて、次回はいつになるのだろう。身体は、もっと長い距離を歩きたいといっている。

 区切り打ちのよいところは、歩きはじめる度に、自分の体が「歩くからだ」に変化していることを実感できることかもしれない。四国を歩いてない「間」の時間にも、体は作られていっているのだ。

(高知市3日目は市内観光に充てた。高知城向かいの高知城歴史博物館でいただいた「海鱗図」の絵葉書)