2025年12月30日火曜日

12月の読書

 Instagramに読書ノート的なものを書いていたのだが、いろいろ面倒臭い。
やはり、のちのちデータベースとして使える、このブログを優先させることにする。

ヘルシンキ 生活の練習はつづく* 朴沙羅 筑摩書房 2024 
 著者の朴沙羅さんが、昔の知り合いのお嬢さんだと知って驚くとともに、妙に納得。いかにも京都あるあるなのだけれど。

きみの体は何者か* 伊藤亜紗 筑摩書房 2021 
 伊藤亜紗がジュニア向けに書いた100頁に満たない薄い本。伊藤さんの吃音者の当事者性を前面に出すことで、読みやすい本に仕上がっている。自分の意志通り動いてくれない体との付き合い方において、すべての人間は当事者なのだ。生きるためには技が要るのです。伊藤さんの研究の原点ここにあり。おすすめ。

インド映画はなぜ踊るのか* 高倉嘉男 作品社 2025
 映画と映画産業の歴史を通して、インド文化に迫る。第七章で取り上げられている「ラサ理論」という紀元6世紀以前(紀元前6世紀に遡るという説もある)に成立したという芸術理論もあるそうな。深い。巨大映画館の盛り上がりは、たしかに凄かった。半世紀も前の話だけれど。


生きるための読書* 津野海太郎 新潮社 2024 
 津野海太郎というと、2000年前後に出ていた「季刊・本とコンピュータ」の印象が強い。1938年生まれというから、もう80代後半なんだ。その、もうじき死ぬ人が、伊藤亜紗、小川さやか、藤原辰史といった1970年代生まれの若い研究者たちの著書を俎上に上げ、学問の気風の変化を好ましいものとして感想を述べているところなど、そうですよね〜と相槌を打ちながら読んでいくと、その人たち態度に通底するものとして、鶴見俊輔の「牙」のある「静かなアナキズム」にたどり着くのだ。

完本 神坐す山の物語* 浅田次郎 双葉社 2024 
 何年か前に、読んだはずの本が、「完本」と銘打って数編の短編と書き下ろしを加えて新しい書籍となって出ている。読後感がまるで違う。仏教伝来以前からこの列島に連綿と伝わり、様々なものと習合しながら現在に至る、見えなものとともに在る山岳信仰の姿を描いている。舞台は武蔵御岳山。


縄文 革命とナショナリズム* 中島岳志 太田出版 2025
  この本は縄文時代についてではなく、戦後、日本人が縄文に何を投影してきたかについての本である。縄文は漠としているから、なんだって投影することができる。多くの知識人たちが、我田引水とも呼べる強引な手法で、自説を補強するための道具として縄文を利用してきた。陰謀論、オカルトとも容易に接続可能である。
 読み方を変えれば、自分自身の縄文観が、どの時代に、どの知識人たちの、どのような言説に影響されて形成されてきたかを知ることができる。この本に出てくるものでいえば、島尾敏雄のヤポネシア論、中尾佐助の照葉樹林文化論といったものの影響を受け、僕自身の縄文観(というよりも、古層のイメージ)が形成されてきたらしい。

カキじいさん、世界へ行く!* 畠山重篤 講談社 2024

体はゆく* 伊藤亜紗 文藝春秋 2022

2025年12月27日土曜日

ふりかえり2025

 歳取るとともに一年が短くなるというが、まったくその通りで、暑すぎた夏の記憶(この夏の京都市は61-68で記録更新。つまり、猛暑日が61日、熱帯夜は68日に及んだ。こんな街は京都だけである。)だけが鮮明で、あと何があったか不覚にも、よく覚えていない。であるのに、あと五日で今年が終わってしまうというではないか。孫たちがやってきて、このまま新年を迎えてしまうと、今年がどんな一年であったか忘れてしまいそうなので、記録と記憶を元に、一年を振り返ることにする。

 まずはお遍路。2月、4月、11月の3回、四国に出向き、38番札所金剛福寺から45番岩屋寺まで250キロを歩いた。正確にいうと、うち30キロはバス利用である。お遍路四年目にして、ようやく全行程の6割を打ち終えたことになる。ともかく土佐路が長かった。まさに修行の道場。来年からは、岩屋寺から松山市に入り、瀬戸内海に沿って歩くことになる。瀬戸内路に入っても、まだ難所はあるようだけれど、往復に費やす時間は短くなってくるはずである。

 12年ぶりのヨーロッパ行きは、一番のビックイベントだったはずなのに、冒頭に書いた京都の夏の暑さにやられて、今年前半の出来事は忘却の彼方に飛んでいってしまいそうである。それでも、秋になって、ドイツ、オーストリアの稽古会で会ったうちの何人かが京都を訪ねて来てくれたので、幻ではなかったことを確認することができた。ヨーロッパの物価の高さを実際に体験すると、インバウンドブームの本質が過剰な円安にあることがよく理解できる。元凶はアベノミクスです。

 長年ホームグラウンドとしていた大井町稽古場が3月末をもって閉鎖になってしまった。もう更地にされ、その後に新しい家が建っていることだろう。ひとつの歴史の終わり。ヨーロッパに行っている間に起こった身体教育研究所の整体協会からの分離独立騒動。この話を聞いてから僕はずっと怒っていた。周囲の人たちの付和雷同ぶりも気に入らない。そう、この秋、ずっと怒っていた。いまや大多数となった稽古会が整体の入口だった人たちと、身体教育研究所を闘いながらゼロから作ってきた人間とでは、歴史観が違っている。

 困ったことに、自分が稽古会でやっていることの9割は、この我儘師匠に教わってきたことで、しかも、ここにきて、人為を離れるための技法がさらに進化深化している。観客然としている立場ではないのだが、この続きを見ないわけにもいかない。さて我が身をどう処するべきか。怒りはまだおさまってない。が、結論は出た。

2025年12月26日金曜日

整体法研究所のころー1992年5月

 1992年というと、僕が整体協会の事務局に入って6年目、稽古場が立ち上がって4年目の年になる。その頃の稽古場というと、まだ指導者養成の場という看板を上げていて、整コンを目指す人たちも稽古に参加していた。稽古場の指導者制度、つまり、技術研究員、動法教授資格といったものが確立されるのは1998年まで待たなければいけなかった。整体協会の中で指導者と呼ばれるのは、整体コンサルタントであり、活元コンサルタントであった時代の話である。

 その時の僕の身分は、まず整体協会事務局資料室員、かつ、本部稽古場運営担当を兼務。資料室員といいながら、稽古場担当の比重がどんどん高くなっていた頃である。しかも、助手と呼ばれていたダン先生の弟子たちが増えていき、つまり、その人たちを統括する中間管理職でもあった。時折、自分の稽古会でのマクラで、「僕の不幸は、ダン先生が師匠ではなく上司として現れたことだった」と話すことがあるのだが、これは誇張ではない。

 京都から東京に移った理由のひとつは、僕自身整コンを目指していたからである。事務局で仕事しながら段位試験も受け、この年、整体コンサルタントの試験も受けた。ただ整コンになるということは、独立することであり、事務局も辞め、どこかにーたとえば、実家のあった岡山にー指導室を構えることを意味していた。

 整体コンサルタント試験が終わり、そろそろ結果が発表されるころのある日、ロイ先生に呼ばれた。おそるおそる会長室に顔を出すと、ロイ先生は困ったような顔で、「キミはどうしたいのかね」と問われた。つまり、事務局に残って、ダン先生の手伝いを続けるのか、それとも整コンとして独立するのか。何日か猶予をもらうことにし、その後、返事をした。

 どの道を選んだかは、ここに書くまでもない。自分で下した決断の重さを消化するために休暇を取って旅に出ることにした。友人を恃んで、一週間、カリフォルニアに逃げた。(当時の記録を掘り起こしてみると、信じがたいことに、東京ーサンフランシスコの往復運賃が66,000円とある。)

 もちろん、整コン試験の合格者の名前に僕の名前は含まれてなかった。ただ、試験官だった柳田先生、吉田先生、堅田先生といった大御所と呼ばれていた人たちの講評にどのような内容が書かれていたのか、今でも、少しだけ気になる。ロイ先生にはご迷惑をかけた。

 この頃から、稽古場の輪郭が徐々に形を取りはじめ、本部との路線の違いが大きくなっていく。稽古場がまだ整体法研究所と呼ばれていた時代の話である。

2025年12月25日木曜日

年末年始読書週間

さてどこまで読めるか。



2025年12月11日木曜日

美容院で髪を切る

美容院に行くのはおそらく20年ぶりのことだ。
京都に来てからというもの、髪を切るのは近所のチェーン展開している散髪屋、しかも二、三ヶ月に一度と相場が決まっていたから、僕にすれば相当の飛躍である。

いきなり、70過ぎの爺さんが現れ、ちょっとパンクでヤンチャな感じにしてくれとリクエストされ、紹介者たるカミさんが、横からベッカム風がよいなどと口を挟むものだから、40代の美容師さんも困ったに違いない。

でも、さすがプロですね。手際よく髪全体の形を整え、そこから、こちらの無茶振りをかたちにしてく。小一時間のうちに、ヤンチャな新生スナジイが出現した。