1987年8月14日金曜日

河上さんのこと

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あざみ野通信 014 1987.8.15

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●河上さんのこと

 河上綾子さんは、僕が京都時代の一時期住んでいたアパ-ト「明美荘」の管理人さん。明治生まれのはず だから70歳代の後半か。いまでも、かくしゃくと管理人としての仕事をこなしている。コ-ヒ-が大好き で、専門店にコ-ヒ-豆を買いに行き、自分で挽いてはサイフォンで入れる。一時期流行った「自立した 女」の先駆者のような人で、コ-ヒ-をご馳走になっては 昔の話を聴かせてもらっていた。 京都市の北、大原の大きな材木問屋の末娘として生まれた河上さんは随分やんちゃな子供だったらしい。お 兄さんと一緒に通っていた柔道を無理やりやめさされ、書道を習いに行かされ面白くなかった話、中学時代 のある夏休み、結婚したお兄さんの住む東京へ親に無断で行った話、そして、京都に帰ろうとした直前、関 東大震災にでくわし足止めをくってしまった話..... 武勇伝は数知れない。

 そんな河上さんも、女学校卒業と同時に、お見合い、そして結婚。もっとも、河上さんに言わせると、ある日、突然、訳も分からず大勢人のいるところに連れて行かれ、後になって、そこにいた一人の男性と結婚するのだと言い渡されたという。ちゃんと顔も見てないのに嫌だと言ったけれど、「そんなことは、結婚してみないと分からないだろう」と言われ、「なるほど、そんなものか」と自分で納得して一緒になったという。

 結婚した相手は商社マンで、この人についてアメリカまで行くことになる。昭和 10 年前後のことらしい。 勿論、船で行く訳で、ハワイまで一週間、そこから、また一週間かけてサンフランシスコに着いたという。 船酔いもひどく、アメリカ本土に到着したた時はさすがにホッとしたそうだが、帰りにも、また二週間船に 揺られるのかと思うと、今度はゾッとしたという話は随分昔のこととはいえ笑えなかった。ご主人の任地は ポ-トランドだったらしい。サンフランシスコから、今度は、汽車の旅である。

 戦争は河上さんの暮らしにも大きな変化をもたらした。夫を戦争にとられ、子どもと二人だけで暮らすことになったが、それで生活が苦しくなったかというとそうでもなかったらしい。それまで、夫の手から渡さ れていた生活費が、今度は、夫の会社から直接送られてくるようになり、それで初めて、夫の給料の額を 知って驚いたという話も聞かせてくれた。面白いエピソ-ドは他にもある。頼まれて軍用犬を飼い始めたら、 その犬のために肉の配給が沢山届き、肉には不自由しなかったとか、請われて専売公社で働き始め、ここで は煙草をもらい、近所の人に分けてあげると、お礼にお米が返ってきたとか、戦争中でも物質的には随分恵 まれていたようだ。この平和な(?)暮らしも戦争終結前後になって崩れていく。まず、一人息子を病気で 亡くし、更には、復員してきた夫が、還ってきて僅か三日目にメチルを飲んで死んでしまう。息子を死なせ てしまったことをどう伝えようかと悶々としていた矢先の出来事で、正直ホッしたともいう。暗いはずの話 なのだが、語り口に悲惨さは微塵も感じられない。過ぎ去った時間の長さもさることながら、河上さんのさ ばけた人柄のせいだろう。

 河上さんの戦後は「独り暮らし」を始めるところから出発する。親戚の人の紹介で病院の付添婦として出るようになるのだが、物事をはっきり言ってしまう性格が災いして敵も多かったが、同時に、ひいきにしてくれる人も多く、時には、指名されて名家に出張にも出かけたそうである。休暇をとって香港に行ったこともあり、その時はその時で、団体行動からはずれ、香港人と結婚している日本人女性と知り合い、その夫婦のやっているレストランを手伝うことになったとか。結局、香港には丸一月滞在したという話だ。

そんな河上さんがどういう経緯で明美荘の管理人になったか、そこのところは聞き漏らしてしまった。特別愛想がよいわけでもなく、むしろ、表面的には不愛想な部類に入る人かもしれない。アパ-トの住民は20代の男女が多かったから、時には苦言を呈してくれる河上さんを煙たがるむきもあったが、僕などは不思議に相性が良かった。

 明美荘を出てからも、仕事場から近かったので、年に数回の割りで話に伺っていた。京都を離れてからは、さすがに会うチャンスは少ないのだが、5月末、僕の結婚記念パ-ティ-を京都でやって貰った時、声をかけたら出かけてきてくれた。旧明美荘のメンバ-も集まっていたのでちょっとした同窓会気分を味わうことができた。その時聴いた話では、河上さんは最近、ボケ防止にと三味線を習い始めたそうである。

○明美荘 東海道線西大路駅の近く、京都市南区にある木造二階建の古いアパ-ト。昭和の初めに近くの工 場で働く工員のための寮として建てられたそうである。広い廊下を挟み、四畳半プラス板間一畳の部屋が並ぶ。 総部屋数18。各階に共同炊事場とトイレ、一階に洗濯機有。若い独身者が多いが中高年の単身者、夫婦づ れも住んでいた。家賃は1万3千円(現在も同じらしい)。78 年9月から 82 年2月までの3年半ここで 暮らした。小栗栖さん、済木夫妻も一時期このアパ-トで一緒で、不思議な半共同生活を送っていた。我々 四人を訪ねてくる人たちも多く、京都の宿泊所の機能も果たしていたように思う。料理好きの済木さんを中 心にパ-ティ-も頻繁に催され(来客があれば即パ-ティ-)、僕の主催したカレ-パ-ティ-に20人 (四畳半の部屋に!)集まったこともある。ここに出入りしていた顔ぶれのうち今でも京都に住んでいる人 はほんの一握りになってしまい、時代の流れを感じてしまう。

1987年5月1日金曜日

異文化を通して見えてくるもの

まだ京都に住んでいる頃、米国に本校のある小さな大学のアジアプログラムで働いていました。学生の数は二十名程度でしたから規模としては小さなものです。それでも、毎年春と秋の二回やってくる学生の面倒をみていくのはなかなか骨が折れるもので、三人の職員が「何でも屋」になって仕事をこなしていました。カリキュラムやプログラムを組んでいくことに始まり、ホ-ムステイの依頼、日本語クラスのアレンジ、 研修旅行の引率、 カウンセリング、更には、この学校が「体験学習」という「現場主義」を旗印にしていたため、各々の学生が関心をもっている分野の「現場」で勉強できるよう、その道の教師・専門家なり団体(墨絵の先生から貿易会社まで)に学生ひとりひとりを紹介していく必要もありました。一方、学生の方は、風俗習慣の違った国に住み、日本語を学び、専攻分野の勉強もし、その上、学校に提出するレポ-トも書いていくわけですから、やりたいこととやらなければならないことの板挟みになることはしょっちゅうです。これに、カルチャ-ショックが重なってくるので、程度の差はあるにせよ、殆どの学生が一時的なパニック状態を経験していました。

カルチャ-ショックというのは風邪のようなものに違いありません。カルチャ-ショックは「異文化と接触することによって引き起こされる不安」とでも定義されているのでしょうが、当然体の変動としても現われてきます。実際に風邪をひいて熱を出すこともあり、私は「カルチャ-ショック熱」などと呼んでいました。生活する環境が大幅に変わるわけですから緊張もしますし、新たな調和へ移る過程の中で身体的反応が起こってくるのは自然なことでしょう。ひどく活動的になったり、感情の起伏が烈しくなったり、本の世界に閉じ篭もってしまったり、食べものに走ったり、学生によっていろいろな調整反応がでてきますし、落ち込みに、二週間目、一ヵ月目、三ヵ月目というような法則性もあるようでした。風邪と同様、あまり焦らず自然に経過させるようにすればいいわけですが、待つことの下手な学生も多く、また、困ったことに、学生を日本に導いたところの「学校」という制度が、学期という人為的な期限を設け、それまでに学習の「成果」を目にみえるかたちで提出するよう学生に強要するものですから、ますます、自然の経過を邪魔する結果になっているのです。残念ながら、一応、進歩的教育をおこなっていると自称しているこの大学にしても、人間の自然のリズムや「間の活用」に考えが及ぶほど進歩的ではなく、まだまだ短期展望の実利主義から抜け出ていませんでした。学生の裡の自然と、学校制度をなんとか折衷させるのを仕事と考えていた私ですが、本来、相入れることのできないこの二つの要素を両立させることには、自ずと限界がありました。

「国際教育」とか「異文化交流」と呼ばれているものが、今流行っているようです。これだけ、交通・通信網が発達し、複雑になり、実際に人間や物や情報が多量に往き来している時代ですから、確かに国際教育の必要性はあるに違いありません。でも、これに人間の理解というものが伴わなければ意味をなさないということが存外忘れられていて、言語の習得であるとか、むしろ技術的なことばかりが前面に出ているのは不思議です。結論じみたものを最初に言ってしまえば、「人間は所詮人間だということに気づくこと」、更に言えば、「人間が一人一人違うことに気づき、自分自身のことをもっと知ること」が国際教育の目的ではないかと思っています。このようなことをいうと、あまりにあたりまえのことなので、とりたてて国際教育を持ち出す必要はないと思われるかもしれません。実際、その通りで、国際教育と呼ばれているものは、この自明さに気づくための一つの方便に過ぎないと考えています。でも、使い方によっては、この遠回りが有効性を発揮することも確かなのです。

外国に行くと先ず目に入ってくるのは「異い」です。異なった言語、異なった習慣、異なった思考回路....自分の常識が通用しない世界を発見するのは新鮮な驚きです。でも、暫くすれば人間としての共通の基盤も視えてきます。生まれ、成長し、愛し、働き、年老い、死んでいく生活。友達もできれば、外国人として一つに括っていたものが、段々、ひとりひとり異なった顔を持った生身の人間として見えはじめ、同じ時代に生まれあわせていることを実感します。。相手がどの国の人間であろうと十人いれば十の個性があるのです。事あるごとに、日本人の代表選手として「日本人ならどう考えるの」と意見を求められると「日本人」と「私」のあいだに隙間があることにも気づきはじめ、私達が「文化」と呼んでいるものに、人を育んでいくのと同時に、人を枠の中に閉じ込めていく側面があることに思いが及びます。「私イコ-ル日本人」ではなく、まず在るのは「私」という個性なのです。そうしているうちに「日本人は....」、 「アメリカ人は....」、「韓国人は....」といった議論がいかに乱暴であるかということにも目覚めてきます。勿論、文化の違いを否定したり、無視するつもりはありません。現在、国際教育の現場で広く使われている、人間集団の行動様式をパタ-ン化・一般化していく文化人類学や社会学の理論は、未知の文化に入って行く個人に有効な手掛りを与えてくれるものです。しかし、同時に、平均的パタ-ンからはみだしている人間を例外として認識するよう作用したり、あたかも、民族性・国民性と呼ばれているものが個々人の個性以前に存在してるような幻想を与えてしまいがちです。「典型的xx人」というのはイメ-ジとしてあるだけで、現実にはいないのです。

共通なもの(同質性)と違うもの(異質性)の関係性を外国(人)という存在を通して学んでいくのが国際教育ではないかと思います。ことばを使って暮らしている私達は、ことばの分類作用のために同質性と異質性が独立していて重なり合わないものだと思い込んでいる節があります。でも一つの現象には両方が含まれていて、その中の何処をみるかによって共通点でも相違点で掴み出すことができるのです。国際教育の現場で、人間や文化の共通点だけを取り上げていれば、人間皆兄弟的な「夢」をふりまくだけで、現実的付き合い方は生まれませんし、逆に、相違点だけに目を奪われていれば、貧しい民族優劣論が導き出されてしまうことになりかねません。「外人」といった国籍という属性や文化的背景まで取り去ったラベルを生身の人間に貼りつけて、人間としての共通性を無視したり、逆に、「日本人同士なら話は通じる筈だ」と勝手に思い込んでみたり、単純明快な安心を求めるあまり、便利な言葉の世界に逃げ込んでしまう傾向が私達のなかにあります。でも、共通性と異質性は不可分の関係にあるのです。共通性があるからこそ、異質さも感じられるといえばよいでしょうか。このことに人間関係のなかで気づいてくれば、違いは違いとして認めたまま、付き合い方を工夫できるようにもなりますし、同質性や異質性を大上段に振りかざす理論に、眉に唾をつけて耳を傾ける知恵も生まれてきます。

他人のことは見えても、それを見ている自分がどんな姿をしているか、一筋縄では見えてこないものです。私達は「他」と出会うことで初めてこの「自分」に気づくのかもしれません。国際教育における外国・異文化も、普段の暮らしの中での他人という存在も、自分の姿を映し出してくれる鏡であるといえるのかもしれません。それにしても見えてこないのがこの自分の姿なのです。
(初出 『月刊全生』 1987年5月号)

1986年5月30日金曜日

【蔵出し】韓国への旅 1986.5

<白雲山上蓮台へ> 

一旦東京に移ってしまうと、T和尚との約束を何時果たせることになるか分からないので、引越荷物をバタバタと一週間でまとめ、ソウルに向け旅立った。これまで、学生を連れて韓国を旅したことは何度もあるのだが、今回は、京都にある小さな禅寺のお坊さん達と一緒に韓国仏教の名刹や修行道場を廻ることになっている。

KE721 便で大阪空港を出発。金浦国際空港到着後、定宿の雲堂旅館に電話したのだが、満員で部屋はないという。夜までにはまだ時間があるので、とりあえず、市内までエアポ-トバスで行き、光化門の近くにある知人の仕事場に電話。突然のことにさすがに驚いたらしいが、構わないというので仕事時間中ではあったがお邪魔する。H女史は言語教育研究院という語学学校の韓国語セクション責任者で、ソウル在住の外国人(日本人も外国人です。念のため)にサイレントウェイという方式で韓国語を教えると同時に、教師を指導養成する立場にもある40代後半の女性。いつもながらエネルギッシュに仕事をこなしている。再会を喜ぶとともに、共通の友人知人の消息を伝え合う。ここに来ると流れるような綺麗な韓国語を耳にすることができる。教師は皆、年令に関係なく知的でユ-モアに溢れている。しかも、研究熱心。

曹溪宗(禅宗)のお坊さんであるM和尚には、あらかじめT和尚たちと一緒に来るからと連絡しておいたのだけれど、なかなか居場所がつかめない。ソウル市内には居るはずなのだけれど。若い友人に手伝ってもらい、知り合いの仏教書籍の店や、M和尚のお弟子さんのお寺に電話するのだがそこにも居ない。とにかく、旅館の電話番号を教え連絡を待つことにする。連絡が入ったのは翌晩。いつもながら便利とは言い難いところに部屋を借りている。とにかく、地図を頼りに市内バスに乗り、打ち合せにでかけることにする。教えてもらったバス停の名前だけを手掛りに夜のソウルを動くのは難儀で、結局、バス停をひとつ乗り過ごし、また戻るということをしながら、なんとか目的地に辿り着くことができた。相談の結果、僕が単独でプサンまでT和尚一行を迎えに行き、その足で、慶尚南道にあるM和尚のお寺、白雲山上蓮台に案内することで話がまとまった。

ソウルからプサンまで高速バスで移動。アジア大会とオリンピックを控え、ソウルの地下鉄も路線があっというまに増え、漢江の南にある高速バスタ-ミナルへも地下鉄でに行けるようになった。韓国の高速バス網は驚くばかりで、ソウル-プサン間 450キロを5時間半で結び、しかも、朝6時から夜6時まで5分間隔で出ている。そして低料金。すざまじい数の人間が毎日動いている訳だ。途中何箇所かには、緊急時(理論上、韓国は今でも戦争状態にあります)に滑走路として使えるよう中央分離帯のない直線路も設けられている。夕刻6時プサン到着。宿は愛隣ユ-スホステルと決め、早速、西光寺に電話してみる。あちらも準備万端整っているらしい。夜のプサンへ。魚市場近くの食堂へ夕食に入り刺身定食を頼むと、小骨が残っている魚の切身が皿に山と載ったものが出てきた。夕食後、安聖基主演の映画を観る。

プサン金海空港に僧衣にバックパックとスニ-カ-姿で現れたT和尚を出迎える。R和尚も一緒。Rさんは日本の外に出るのが文字通り初めて。でも、その割りにはリラックスしている。これから三人で白雲山上蓮台禅院を訪ねる。咸陽行直行バスは晋州までは高速道、その先は田舎道を走って行く。咸陽まで、途中の休憩を入れて3時間半。乗客にはお年寄りや子供連れも多く幹線のバス路線と違い生活の匂いが溢れている。咸陽から白雲山の麓の村まではタクシ-を使い、そこからは徒歩。麓で雑貨屋をやっている人がお寺に連絡の電話を入れてくれた。途中まで誰かを迎えによこしてくれるとのこと。実にのどかな田園風景。韓国の田舎にくると、自分が育った昔を思い出す。畑あり、田あり、牛がいて犬も散歩している。畑の間の小径を山に向かって抜けて行く。晩秋の紅葉も見事だったが5月の新緑も美しい。小川を石づたいに渡り、ますます細く、急勾配になっていく径を登っていく。半分くらい登った頃だろうか、上の方から人が下りてくる。M和尚の弟子のSさん、それに、お寺に住んでいるらしい若者。我々から無理矢理荷物を取り上げて運んでくれる。最後の胸突八丁の坂を登りきると視界がさっと開ける。白雲山上蓮台に到着。汗びっしょりの体も、まるで毒素が抜けていったようで快い。時間はすでに夕刻。食事の支度か、それとも、オンドル用に燃している薪か、煙突から白い煙が上がっている。

白雲山という1200メ-トル程の高さの山の中腹にあるこの小さな禅院は、随分長い間放置されていたものをM和尚が再興したものだとという。再興の途中と言ったほうが正確かもしれない。急な斜面に簡素な建物が三棟だけ建っている。在家の人も何人か住み込んでいて、食事をはじめ、日常生活の世話をしてくれている。本尊の置いてある棟が本堂であり、座禅堂であり、また、食堂でもある。食事はオンドルの床の上にステンレスの食器を並べていただく。勿論、菜食。山菜は新鮮で豊富。それにご飯がとにかく美味しい。山の清水-「薬水」と呼ばれている-を使って炊いているせいだろうか。韓国だけあってキムチ(但し、ニンニク抜き)も欠かせない。
コツッコツッという歯切れのよい木魚の音が山に谷に木霊する。時刻は早朝4時。寺の一日が始まる。セ-タ-を着込み、懐中電灯を手に外に出る。息は白い。夜明け前の星が空いっぱいに輝いてる。暗闇のなか、三三五五人々が本堂に集まってくる。M和尚が現われたところで朝課開始。三帰回文に続き、般若心経を詠み始める。同じ般若心経なのだが韓国語読みでやると随分違ったものになる。節まわしも独特。石牛さんの声は朗朗としている。でも、無虚和尚がやると、なんだかコミカルに聴こえてしまう。小さな木魚を左手に、ばちを右手に持ち、礼拝とともにポクッ、ポクッ、ポクッ、.... と鳴らしていくのも面白い。お経の詠み方にしても日本のお寺(といってもT和尚の寺しか知らないのだが)で聴く丁寧、正確無比のお経に比べると、いかにも素朴で骨太なかんじ。お経が終わると座禅。座布団の上にめいめい座る。暝目してもしなくてもいいらしい。今度は、竹を割った扇のようなものを手で打ち、バシッと音をたてて、開始終了の合図とする。朝課が終わる頃には朝もしらんでくる。朝食までは休憩。部屋に戻り、また布団に潜り込む。

午前中、お寺から少し離れたところにある土窟とよばれている暝想室に行ってみる。いわば独り篭もって「摂心」をやるような小さな庵。見晴らしも抜群によい。T和尚、Rさんはかわるがわる部屋の中央に坐り、坐り具合を試している。午後、皆で白雲山に登ることになる。木立の間の細い道を登って行く。傾斜は麓から上蓮台までの道よりずっと険しい。しばらく行くと平坦な草地に出たのでここで休憩。もう既に汗びっしょり。頂上はまだ遠い。また少し登ると、今度は、見晴らしのきく大きな岩のところに出る。そして、この岩からほんのちょっと離れた処にもう一つの岩が見える。座禅石、つまり、その上に坐って座禅をする岩だという。さっそく、Rさんはその岩に坐り座禅のポ-ズ。Rさんの後に下界がパノラマとなって広がる。

M和尚とT和尚は、因縁のライバルのようなところがある。実際、お互いを、評価しながら、批判的に眺め、張り合っているような面があり、双方をよく知っている僕としては、こうして二人のお坊さんと一緒に旅すること自体とても興味深い。

<海印寺へ> 
白雲山を下り、海印寺へ向かう。まずハミャンまで戻り、そこからバスを乗り継いで行く。我々三人にM和尚とSさんが加わり総勢五名。海印寺は韓国三大古刹の一つに数えられている由緒あるお寺で、特に八万大蔵経で有名である。欝蒼とした森のなかにあり、大小の寺院、僧堂、それに僧侶養成のための大学もある。僕にとっては3回目の訪問。 僕が初めて韓国に来るきっかけとなった76年夏のFIWC (フレンズ国際) ワ-クキャンプに参加した際、日帰りのバス旅行で訪れ、また、84年冬には、出会った次の日に無虚和尚に連れられて来たことがある。真海和尚によると、この海印寺は永平寺の雰囲気によく似ているとのこと。海印寺ではM和尚の師匠にあたるI禅師の知足庵にお世話になる。我々が着いた時には、日本を遅れて出発したYさんが既に到着していた。Yさんは、インド哲学、実質は仏教学を専攻している大学院生。授業の関係でT和尚とは一緒に出発できず、海印寺で合流する予定にしていた。プサンからちゃんと一人でここまで辿り着いたようだ。

I禅師は「宗正」という海印寺で一番高い地位にある方で、永平寺でいえば「管主」に相当する地位にいることになる。禅師は永平寺を訪れたこともあるそうで、日本仏教の事情にも詳しい。日本ではあまり知られていない韓国仏教の歴史や現状を親切に教えていただいた。出家仏教が中心の韓国仏教者にとって僧侶が妻帯する日本仏教の現状はある種の堕落に映るらしい。それでも、仏教研究学における日本の学者が果たしている役割は大きいそうで、日本で発行された仏教研究書がI禅師の書架に所狭しと詰まっている。

そもそもT和尚が韓国、特にこの海印寺を訪ねてみたいと考えたのには理由がある。曹洞宗の開祖である道元禅師から数えて六代目にあたる肥後の大智禅師というお坊さんがいた。そのお坊さんは、修行のため中国に渡り、その帰国の途中、船が難破してしまい朝鮮半島に漂着する。結局、朝鮮のある僧院で修行を続けることになるのだが、在高麗時に詠んだ漢詩数篇が残っているだけで、はたしてどのお寺で修行をしていたか判らないでいた。ところが、そのお寺が海印寺であり、また、詩にでてくる高僧は、現在、海印寺白蓮庵に居住されるL老師のようなお坊さんに違いないという説が十年程前、日本のある仏教学者によって言われるようになった。

T和尚のお寺で在日韓国人の若者を引き受けたり、韓国からM和尚が訪れてきたり、T和尚の在家の弟子が無虚和尚の許で暫く修行することがあったり、様々な縁が絡み合い、T和尚自身も韓国を訪れる気になったらしい。そこで、海印寺に来たからには、是非、L老師にお会いしたいと、I禅師を通して面会を願い出た。

L老師というのはめったに人に会わないことで知られており、国の大統領が面会を求めても、会いたくない時には会わないそうである。逆に、国の大臣を呼びつけることさへあるという話だ。伝説じみた人であることは間違いない。案の定、T和尚の面会希望は断られる。しかし、T和尚も情熱の人、三千拝(過去・現在・未来の計三千の仏の名前を一つ一つ詠みながら五体投地を繰り返す修行)をすれば面会を許されるでしょうかと食い下がる。それでも否定的な返事しか戻ってこないので、ついには、白蓮庵に押しかけるという非常手段をとることになった。総勢6名で白蓮庵に向かう。知足庵から一度谷を降り、そこから、再び山を登ったところにある。まず、M和尚が白蓮庵の若いお坊さんに声をかけ、面会を申し入れる。「老師はお会い致しません」との答えが返る。これを何度か繰り返し、結局、庵の中の一室にに通される。皆の緊張が更に高まる。特に普段はのんびりしている無虚和尚が何時になくピリピリしているのが伝わってくる。お茶が運ばれ、果物が運ばれる。「いつまでお待ちになっても老師はお会いになれません」と取次役のお坊さんは答える。「そこをなんとか」とM和尚は食い下がるのだが、とりつくしまもない。一時間たち二時間近く待っただろうか。結局、諦め、白蓮庵を辞することになる。帰り道、「お会いできなくて良かったのかも知れない」とT和尚。これで良かった、という思いが僕の中にもあった。こうしてT和尚が念願の海印寺を訪れただけで十分、この上、L老師に会ってしまえば、逆に、次に繋がっていかない、そんな気がしていた。僕にとっては、T和尚の仏教者としての真摯さ、M和尚の献身的とさえいえる態度に接することができただけで有難いと思った。

知足庵に二泊した後、僕は、T和尚一行と別れ、大邸経由でソウルへ戻り、帰国の途につくことになる。こうして、僕の十ウン回目の韓国旅行は終わることになるのだが、それまで学生を引率してあちこち回ったのとは一味違う旅となったことはいうまでもない。T和尚一行は、その後、慶州・釜山を回り、フェリ-で日本に無事帰って来たそうである。僕は、ソウルから東京へ直行し、その翌日から整体協会で働き始めることになる。つまり、東京暮らしの第一歩を踏み出した。1986年の5月28日のことである。

宇奈根通信 #10 1987.4.20  + あざみ野通信 #13 1987.7.5