大井町火曜日の夜学は「
活元運動以前」と「合掌行気と内観的愉気」を一週間おきに行うというスタイルで始まった。はじめてみると後者も「合掌行気以前」とうタイトルに変えた方がよさそうである。行法としての合掌行気であれば、両の手のひらが合わさった後に何が起こるかに力点が置かれても不思議ではないが、稽古として行うとなると、むしろ前半部分をどれだけ丁寧に行えるかが生命線になる。つまり、合掌行気というカタにどのように入っていけるかの追求が稽古になるわけだ。意志の力によって手と手を合わせ、合掌の形に持ち込むことは簡単である。それを意志の力に依らないで行うにはどうすればよいのか。カタの形成の問題というのは実に興味深い。他者との同調に求められる「カタ」という無意志にたどり着くために、人は先ず「カタに入ル」と意志せねばならぬ。この矛盾に折り合いをつけていくことが技になっていく。ヒトとして生きるこというのは実に厄介なことである。