2024年6月29日土曜日

6月の読書

超人ナイチンゲール* 栗原康 医学書院 2023
 憑依系の書き手であるアナキスト#栗原康が、神秘主義者ナイチンゲールに憑依して出来上がった一冊が#超人ナイチンゲール 。舞台は19世紀のイギリス。この組み合わせを思いついた#ケアをひらく シリーズを立ち上げた#白石正明 という編集者はすごい。このシリーズ、三分の一くらい読んでいるけど、どれもおもしろい。

増補・近代の呪い* 渡辺京二 平凡社ライブラリー 2023
 初版は2013年で、この増補版には、2014年にスタジオジブリで行われたインタビュー「近代のめぐみ」が追加で収められている。渡辺さんの名著「逝きし世の面影に記録されいる外国人の眼を通して捉えられた江戸庶民の「幸福感」は、明治政府の自己正当化のもとで無視され、戦後のマルクス主義的歴史観においても無視されてきた。そのような歴史観への抵抗(という言葉は使ってないけど)であった。僕らがやってる身体教育と呼んでいるものも、前近代あるいは近世を生きた庶民の身体を追体験することで、国民国家的身体、消費社会的身体に抗おうとする試みなのかもしれない。

「日本語」の文学が生まれた場所* 黒川創 図書出版みぎわ 2023
 黒川創の『「日本語」の文学が生まれた場所』を読み進めていくうちに、著者の視点が形成されてきた水源に「思想の科学」があることを知り腑に落ちるものがあった。男たちが漢文から口語文への移行に四苦八苦していた時期、鷗外の妻、森シゲは、軽々と言文一致の世界に入っていったなどという逸話は興味深い。漢文世界から口語文世界へ、日本のみならず、朝鮮、中国、台湾でも同様の試みが、相互に影響を与えながら〜人の行き来も多かったわけだ〜行われていたのだ。

地図と拳* 小川哲 集英社 2022
 600頁を超える長編、#地図と拳 読了。人工国家であった満州国を描くのに「建築」「地図」といった工学の知見を織り込むことで、虚構国家がリアルに立ち上がってくる。直木賞作品だった。

教えないスキル* 佐伯夕利子 小学館新書 2021
神田ごくら町職人ばなし 坂上暁仁 サイド社 2023

2024年6月28日金曜日

コンヴィヴィアリティのための道具

 Your夜学「からだを失くした現代人のための身体教育論」の最後にイリイチの「コンヴィヴィアリティ」という言葉が出てきて自分でも驚いた。そのくせ「コンヴィヴィアリティのための道具」(ちくま学芸文庫 2015)をまだ読んでなかったので、これはいかんだろうと本屋に走った。もともとは1989年、日本エディタースクールから出版されている。訳者の渡辺京二さん、「コンヴィヴィアル」に「自立共生的」という言葉を充てている。コンヴィヴィアルとかヴァナキュラーとか、イリイチの使う単語は日本語に置き換えづらい。

 それにしても50年たって、またイリイチかよ、という感は否めない。僕のことを「イリイチ本を訳した人」と思っている人が、たまにいて面食らうのだけれど、まったくの誤解です。1980年に野草社という出版社から「対話」という本が出て、その翻訳者の一人として僕の名前が出ていて、しかも、なぜか一番目にクレジットされていて、それがいまでも検索エンジンで引っかかってくるせいなのだけれど、大いなる誤解で、自分的には「黒歴史」。渡辺京二訳ののコンヴィヴィアリティ本のあとがきに「わけもわからない訳本をだすのはよくよく罪深い行為なのだ」と書かれてあって、思わず身をすくめた。

とはいえ、1973年以来、断続的ではあるけれどイリイチは読んできた。
これまでイリイチがどのように紹介されてきたのか、Wikipediaで著作の英語版と日本語版の発行年を調べてみた。どうやら1970年の後半あたりから注目されるようになってきたことがわかる。イリイチがメキシコのクエルナヴァカに設立したCIDOC(Centro Intercultural de Documentación)で活動していた時期(1965-76)から10年後ということになる。日本にどのような経路でイリイチの思想が入ってきたか、よくわからない。日本の知識人って、結局ただの輸入業者だから、案外、フランス経由という可能性もある。

1971 / 1985 Celebration of Awareness
1971 / 1977 Deschooling Society 脱学校化社会
1973 / 1989 Tools for Conviviality コンヴィヴィアリティのための道具
1974 / 1979 Energy and Equity エネルギーと公正
1975 / 1979 Medical Nemesis 脱病院化社会

1981 / 1982 ShadowWorks シャドウワーク
1982 / 1984 Gender  ジェンダー

僕などは、初期の著作に触れていた程度で、2000年代に入って藤原書店からイリイチの本が出版されるまでの20年間、イリイチとは疎遠だった。なので、1980年代、エコフェミ論争なんてものがあったことさえ最近になるまで知らなかった。しらなくてよかった〜。

今年の春、本棚を整理していて、もうこの先、イチイチを読むこともないだろうと、藤原書店から出ていた三冊の本も手離した。なので、え、またイリイチ、いったいこの半世紀、自分たちはなにをしていたんだろと思ってしまうのだ。
 








 


2024年6月21日金曜日

夜学終了ー世界史の中で「整体」を考える

三回に渡って行われたYour夜学「からだを失くした現代人のための身体教育論」無事終了。結局、からだを失くした人は現れずー考えてみれば当然のことで、このタイトルに反応する人は、自分が体を失いつつあることを自覚している人だー普段、等持院稽古場で稽古していながら、顔を合わせたことのない人たちの交流の場になってしまった感はあるけれど、中間地点で集まれたことはとてもよかった。これまでご縁のなかった人たちともお会いできたし、なにより、人前で話す機会を得ることで、自分のやっていることが、大袈裟にいうと「世界史」のなかで、どのようなポジションでいるのかーなんで自分はこんなことをここでやっているんだろうかという素朴な疑問なのだがーを考える機会となった。 

凡人にとって、自分が生きてきた年数分しか歴史を遡ることは難しいようで、僕など齢72にして、1952年から72年分、歴史を遡れるようになった。とはいえ、70年遡ったとしても1880年代、すでに明治の世は始まっている。この間、日本人の身体観はどのように変化していったのか。西洋文明が怒涛の如く流入した明治期、モノが急速に増えはじめた高度成長期。高度成長期を通過してきた僕など、その時期の変化を肌感覚で知っている世代なので、ついつい、そこに焦点を当てて話を進めてしまうのだけれど、よくよく考えてみると、1980年代にはじまった、パソコン、インターネット、スマホの出現といった出来事ーIT革命と呼ばれているのかーは、高度成長期に匹敵する変化をこの社会に与えてきたのかもしれない。

今回、会を進めるにあたり、晴哉先生の著作と並行して何冊かの本を補助線として紹介していった。列挙すると、「はらぺこあおむし」「身の維新」「ケアの倫理」「近代の呪い」といったもの。最終回で紹介した渡辺京二さんは「増補 近代の呪い」(平凡社ライブラリー 2023)の中で、「普遍」という人間中心主義的価値を取り入れることによって世界は西洋文明化されていかざるを得なかったと説き、二回目の会で取り上げた岡野八代さんは、「ケアの倫理」のなかで、西洋の男たちが築き上げてきた「普遍」という価値感に「ケア」ー整体の観点からすると「双」ということになるのかーの倫理でもって楔を入れようとしてきたフェミニズムに焦点を当てている。

まとめの話になったとき、イリイチのコンビビアリティという言葉が出てきたのは自分でも意外だった。いまだに相応しい日本語に出会ってないけど。おまけに、Tools for  Convivialityの訳者は渡辺京二さんだー未読だけどーそして、祭りの話に。なるほど、祭りというのは、西馬音内盆踊にせよ、諏訪神社の御柱祭にせよ、祭りを中心に一年を過ごしている人たちがいて、その人たちは体を失くしてはいない。近くにいる人たちとの丁寧できめ細かな関係性。僕は、この仕事ー機度間の追求としての整体ーを続けていくだろう。この世が放射能で溢れようとマイクロプラスチックで埋め尽くされようと、西洋化文明社会の帰結として、それは受け入れる。ただ、孫たちが生きていく未来を思うと、世界を少しでもマシなものに変えたいと思う。

2024年6月17日月曜日

Your夜学 3

  今週19日水曜日、18時半より、Your夜学「からだを失くした現代人のための身体教育論」(→https://dohokids.blogspot.com/2024/03/blog-post.htmlをやります。三回シリーズの最終回になります。今回はじめて参加されるという方もいらっしゃるので、どなたでも参加できます。前回、等持院稽古場ですでに稽古されてきた方が、私の話を頷きながら聞いてくださっている風景が印象的で、「あれ、普段、こんな基本的で大事な話をしてきてなかったのかしら」と反省することになりました。三回目は、「身体と文化」といったところまで、話を広げられればよいなと考えています。今回もにんじん食堂さんがお弁当を用意してくださる予定ですので、事前の予約をお願いします。

輪島漆器販売義援金プロジェクト つづき

  先月末、今月初めに等持院稽古場で開催した「輪島漆器販売義援金プロジェクト」、近隣の方たち、連句の仲間も来てくださり、約20万円の義援金を被災者のもとに届けることができました。来てくださった方たち、情報の周知にご協力いただいた方たちにお礼申し上げます。

 とはいえ、預かった輪島漆器、まだまだ在庫があります。漆器を購入してくださったご自分でカフェを運営されている方から、協力の申し入れがあり、現在、その場所で展示販売会が可能かどうか、調整しているところです。詳細決まり次第、このページでお知らせします。また、事前にご連絡をいただければ、等持院稽古場でみていただくこともできます。

 山田修さんがはじめたこの義援金プロジェクト、どんどん輪が広がっている様子す。UX 新潟テレビ21のニュース映像がYouTubeにアップされているので、共有しておきます。

 わが家でも漆の器を使いはじめました。手触り口触りが良いです。小ぶりの飯碗に豆御飯などを盛ると、それだけで美味しいです。汁椀、煮物椀で素麺をいただくのもよいですね。



2024年6月13日木曜日

京都2024夏

どことなく草臥れた感じが抜けない。
こういうときは、水の力を借りるか、大きな岩の近くにでも行った方がよい。
熊野行きを考えたが予定が立たない。
近場でどこかないものかと「磐」で調べてみた。
何ヶ所か出てきたがーそういえば、船岡山だって磐だーピンとこない。
亀岡に出雲大神宮というのがあるらしい。
丹波の国一宮。
円町から電車で30分弱、千代川という駅で降り、そこからバス。
家を出てから一時間半ほどで到着。
参拝客も適度で、混み合ってはいない。
境内は清涼。

参拝を済ませ、帰りは旧道をたどって亀岡駅まで歩くことにした。
六キロほどの距離を歩きながら、この土地が、昔から開けていたことを知る。
そして、オーバーツーリズムによって、今、住んでいる京都という街が疲弊してることに思い至った。

そう、京都という町が草臥れてきている。観光客が悪いとは思わない。むしろ、ぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られて寺社仏閣を回っている外国人観光客をみると気の毒でならない。半世紀前なら、海外からの観光客といえば、欧米人が多く、植民地的視線を感じることも多かったが、今は国籍が多様化し、どこか「憧れの国日本」にやってきた感がある。こっちが歳取って、しかも稽古着姿でいるものだから、バスに乗っても、席を譲られることが多い。地元民に配慮して観光しましょうというコンセンサスは、コロナ前よりは浸透している風がある。観光客に対して、基本、僕自身は好意的なスタンスだ。若い頃あちこち歩き回った経験は人生の糧になっているし、観光客の無邪気な顔をみることは、そういやではない。

ただ、オーバーツーリズムによって、京都という町が疲弊してきていることも確かだ。観光客がやってきて、お金を落として町が活気づく。産業として観光を捉えれば、その通りかもしれないが、その「消費」によって、土地の力は奪われている。亀岡の田舎道を歩きながら、そんなふうに思った。

2024年6月1日土曜日

輪島漆器販売義援金プロジェクト

 能登半島地震被災者支援のための輪島漆器展示販売会をやります。予告してから一ヶ月になりますが、山田さんの活動はいろんなメディアで紹介され(→中日新聞web  →UXテレビ)、大きなうねりをつくりだしているようです。

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輪島漆器販売義援金プロジェクト 

 糸魚川市在住の山田修さん(ぬなかわヒスイ工房)は、2月から能登半島地震の被災地支援に継続的に入っています。その支援活動の中で出会った被災者の一人から、災害関連ゴミとして処分される寸前であった輪島漆器を大量に預かることになります。ただそれを代行販売して義援金とするには、法的問題をクリアするとともに、膨大な労力が必要とされました。その活動を側面支援するため、今回、山田さんが販売にこぎつけた輪島漆器を等持院稽古場で展示販売する機会を設けることにしました。売上金は全額、義援金としては器の持ち主に手渡されます。


【日時】

 5月30日(木)16時~19時

 6月  1日(土)15時~18時

 6月  2日(日)12時~15時 (17時まで延長します)

 これ以外の日時については順次、このページでお伝えします。


【場所】 

京都市北区等持院北町8-3 等持院稽古場


【問い合わせ】

 メールで角南(すなみ)まで。dohokids@gmail.com

 このプロジェクト発足までの経緯と直近の活動は、「ぬなかわヒスイ工房」のサイトで読むことができます。 https://nunakawa.ocnk.net/