2020年3月10日火曜日

大きく息を吸う

映画館に行ってきた
数日前の話
きっと空いているだろうという読みは外れ、そこそこ人が集まっている
上映開始
なんだか息苦しい
なに、この息苦しさは?
ひょっとして、過剰消毒?
それとも、観客みんな息を詰めている?
おそらく、その両方だと思うのだけれど、最初の30分つらかった
映画の中身も予想していたより重いー「ジュディ」です
上映が終わり、外に出て大きく息を吸った

2020年3月3日火曜日

新しい時代

コロナウイルスで巷はさわがしい
311直後の街の空気を思い出した
311のあと、僕はどんなことをブログに書いていたのか蔵出してきた
311のときは、「目眩まし停電」だったけど、今回は「目眩まし休校」なのだね

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新しい時代


駅を出て停電で暗くなった道を歩きながら、首都圏の意味も郊外の意味も変わってしまったことを自覚した。数ヶ月の不便で、生活が元に戻ることはもはやない。数千万人の人間が、放射能との共存を否応なしに強いられる世界。まだ誰も経験したことのない、そんな世界にすでに僕らはいる。これまで目隠しをされ、目を背けていたものが突然眼前に現れた。つまり、僕らが抱えていた嘘が露わになった。その嘘を再び塗り込めてしまおうとする力も強く働く。しかし、ここから始めるしかないではないか。新しい時代ははじまったが、旧い時代はまだ終わってはいない。
(2011年03月23日)


いつまでも寒い。何日かまえ、横浜でも雪が降った。冷えびえとした雪だった。地震から二週間、被災地の寒さは如何ほどであろう。計画停電を、ぼくは、「目眩まし停電」と名づけた。原発事故から目をそらさせ、原子力発電なしに都市生活は送れないよという脅しのメッセージ。でも、僕らは気づいてしまった。なんだ、これまでの明るさは不要だったんだ。電車も各停だけで十分じゃないか、と。停電のせいで経済活動は停滞するだろう首都圏の意味はまちがいなく変わる。
福島原発の動向から目が離せない。事故が起こったとき、誰も当事者能力を持てない。東電はもとより、政府もまた当事者能力を持てない。そのことが露わになった。原発はそのような怪物。国民の命を守ろうとしない政府にどのような存在価値があるというのか。各国の大使館が日本在住の自国民にどのようなメッセージを送っているか。この方が、政府発表や国内大手メディア報道より参考になる。なんと悲しいことだろう。
新しい時代ははじまった。じゃあ、どんな時代にしていくのか。
(2011年03月27日)


暴動が起きても不思議のない状況なのに、僕らは大人として振る舞おうとしている。なぜなら、僕らは、すでに自分たちが核の人質であることを理解しているから。暴力的手段に訴えれば、その先は破滅であることを知っているから。では、僕らにどのような表現が可能なのだろう。徹底的に非暴力で、徹底的に美しく、徹底的にたくましい。そのような道を見つけることなしに、新しい時代はやってこない。
当事者能力とはなんだろうと考えている。今回の原発事故でいえば、東電も政府もその当事者能力の欠如を露呈させた。当事者能力を持てない技術なんて怖いじゃないか。ふりかえってわが身をみれば、同じことだ。なにもかも他人まかせ、制度まかせにしてきたではないか。もし、僕らにできることが一つあるとすれば、この当事者能力を育てていくことにあるのかもしれない。新しい時代の担い手のイメージが少しだけ湧いてきた。
(2011年03月31日)


戦後生まれの私は、当然のことだが敗戦を知らない。なのに、いま私が体験している事象はまがうことなく「敗戦」である。一体全体この既視感はどこからくるのだろう。3.11から三週間、街は平静を取り戻してきた。あたかも、暫くすれば、3.11までの日常が戻ってくると信じているかのようだ。でも、そんな日が来るとは思えない。青天の霹靂ではない。きたるべき時が、やってきてしまった。僕らはすでにSFで読んだ不条理の世界の中にある。放射能予報をみてから洗濯物を外に干すかどうか判断する。そんな、へんてこりんな世界。夏場、公園のスピーカから流れてきていた光化学スモッグ注意報のなんとのどかだったことか。この落ち着きのなさとどう共存していくのか。SFで語られていた世界が現実になったとき、僕らはどんな文学を産み出せるのか。試されているのは僕らの文化力かもしれない。
(2011年04月02日)

2020年3月1日日曜日

【参加申込受付中】石川合同稽古会

石川合同稽古会、参加受付中です。
なにげにさわがしい世の中ですが、施設閉鎖にでもならない限り、やります。
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石川合同稽古会の詳細決定しました。
以後、このページで、お知らせしていきます。(2/5)

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石川合同稽古会 2020  4月4日〜5日   (pdf版はこちら

 第3回目の石川合同稽古会を開催します。会場は金沢湯涌創作の森で、今回は、覚張幸子さん(専科動法教授資格者・歌手)を迎えての気韻発声の稽古も予定しています。参加希望者は3月20日までに、申込書に必要事項をご記入の上、お申し込みください。

【日時】

 4月4日(土)
  13時〜16時30分 
   稽古Ⅰ 動法入門〜基礎が進化するとは?*(角南・遠藤)
        *稽古1に限り未会員の方も参加可能です
  17時〜19時30分
   稽古Ⅱ 気韻発声(覚張幸子)

 4月5日(日)
  10時〜13時30分 
   稽古Ⅲ 動法入門〜カタと内観(遠藤・角南)
  
【会場】 金沢湯涌創作の森
    金沢駅より北鉄バス12番湯涌線 湯涌創作の森下車 徒歩8分

【担当】
   遠藤日向(金沢稽古会)
   角南和宏(白山稽古会・等持院稽古場)
   覚張幸子(専科動法教授資格)

【会費】 稽古Ⅰ3500円 稽古Ⅱ3000円  稽古Ⅲ 3500円

【宿泊】 一人一泊 2000円 (シーツ代、宿泊税、朝食用食材を含む)18名限定

【申込】 遠藤 rakuendoh@gmail.com  090-3169-2806
     角南 dohokids@gmail.com   070-5592-0591

 覚張幸子さんについて
 十年以上前のこと、いやもう少し前のことかもしれない。風狂知音のライブを横浜関内のエアジンに聴きにいった。ぼくがまだ事務局の仕事と大井町稽古場での稽古担当という二足のわらじを履いて大車輪で活動していた頃のことである。風狂知音は、覚張幸子(vocal)、田村博(piano)、津村和彦(guitar)の三人のジャズユニット。この人たちの作り出す音楽を通して、音楽とは聴くものではなく「体験」するものであるということを学んだのだけれど、その日のライブは格別で、もう、自分の体がバラバラにばらけてしまうという驚愕の経験をした。風狂知音の音楽には、稽古のエッセンスが覚張さんを通して注入されているので、翌日、裕之先生に、「こんな経験をしたのだけれど、これは整体で可能なのか?」と問いにいったことを覚えている。無論、返事は「そうだよ」というもの。それからしばらくして、僕は二足のわらじを脱ぐという一大決心をするのだけれど、このときの、風狂知音の音楽との出会いがひとつの契機であったことは、ぼくのなかでしっかりと記憶されている。数年前、津村さんが逝き、二人組みになってしまったけれど、風狂知音の活動は続いている。できれば、一度、風狂知音の音楽を金沢で聴いてみたい。(角南記)

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 石川合同稽古会202004 参加申込書 下記内容をメールで送付ください

  1 氏名   
  2 電話番号 
  3 メールアドレス
  4 住所
  5 整体協会の会員ですか?   □はい  □いいえ
  6 希望参加コマ        □稽古Ⅰ □ 稽古Ⅱ □ 稽古Ⅲ 
  7 宿泊を希望されますか?   □希望します  □不要です
                                                                                                                      (  /受付)

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第3回目の石川合同稽古会を開催します。
日程は4月4日(土)5日(日)の両日、会場は金沢湯涌創作の森で、今回は、覚張幸子さん(専科動法教授資格者・歌手)を迎えての気韻発声の稽古も予定しています。
詳細は近日中に発表します。(2/5)

2020年2月28日金曜日

2月の読書

憑依の近代とポリティクス*  川村邦光編著 青弓社  2007
動的平衡ダイアローグ*  福岡伸一 木楽舎  2014
狼の義-新犬養木堂伝*  林新・堀川惠子 KADOKAWA  2019
限界費用ゼロ社会*  ジェレミー・リフキン  NHK出版  2015
今西錦司*  平凡社standard books  2019
未来への大分岐*  斎藤幸平編 集英社新書 2019

2020年2月26日水曜日

同工異曲

 とある編集者と話していて、五十音順にタイトルを並べた用語集のような本造りを示唆された。なるほど!と思って、このブログを含め、これまで書いてきた文章を五十音順に並べてみた。つまり、時系列を取っ払って、タイトルで並べ替えてみた。結構、面白い。100頁ほどの小冊子なら、すぐできてしまいそう。孫を読者として設定したーつまり、おじいちゃんは、こんな風に生きてきたんだよ、と解説するためのー自家本にはできそうだ。古希を記念して、こんな自家本を百部くらいつくってみるのも悪くない。散々書き散らかしてきたから、すぐに50くらい集まるだろうと高をくくってきたのだけれど、意外なことに無いものは無い。いくら探しても、ヌネノの項目が見つけられない。当然のことだけど、整体がらみの文章は多い。ところが、それ以外のものを取り除いて、整体関連のものだけにしたら、どれもこれも同工異曲の文章ばかりで、まったく面白味に欠ける。もう詩を書いていくしかないのか。これは前途多難だ。

2020年2月24日月曜日

へうげもの

「へうげもの」再読中
なんと25巻まで出ているらしい
いったいこれまで、どこまで読んでいたのだろう
12巻まで読み進んで、追いついた
奥付を見ると2011年
つまり、東日本大震災で、止まっていたのだ
でも、秀吉まで死んでしまったあと、話はどのように進んでいくのだろう?


2020年2月14日金曜日

百年という時間 2

最近、どの本を開いても百年前が舞台だ。二十世紀の初頭、1900年〜1920年頃。どうやら日蓮主義者だったらしい曽祖父角三郎さんのことを調べようと開いた「日蓮主義とはなんだったのか」は、明治維新の二年前に生まれた角三郎さんの壮年時代と重なるから当然のことなのだけれど、「近代日本の民間精神療法」もまた然り。そういえば晴哉先生の生まれたのも1911年。「女たちのテロル」で描かれている金子文子が生きたのも、また同じ時代なのだ。今年が2020年だから、ちょうど百年前の時代、日本が帝国主義に足を踏み出していた頃のこと。そして、おどろくべきこと(ほんとは、驚いてはいけない)なのだけれど、その百年のうち、すでに僕は68年生きている。なんだ、百年前って、たった自分より一世代前の話なのだ。このエントリーを(2)としたのは、三十年近く前、同じタイトルで文章を書いていることに気づいたからで、40歳のときの時間、歴史感覚と、60代の今では、ずいぶん違ってきている。年号という時代区分によって、自分自身の時間感覚が日本という国に絡め取られてきたことを痛感することが最近とみに多い。