京都に帰ってきたら、無性に音楽が聴きたくなった。このところCDプレイヤーがやや不調なので、抽斗の奥からipod touchを引っ張り出してきて、macから音楽データを移し、dockの出力端子とアンプの入力端子をつないだ。容量8ギガしかないipod touchだけれど、普段、CDで聴いているものの枚数はそう多いわけではない。4ギガ分入れれば、丸二日かけっぱなしでもお釣りがくるくらいだ。一時は売り払ってしまおうかと思っていたipod touchだけど、あらためて触ってみると結構な名機に見えてくる。dockに載せると使い勝手もよい。涼しくなって、アンプから出る熱もそう気にならない。一日中、かけていた。
2020年9月21日月曜日
150日
千葉に通うきっかけになった出来事から150日目の朝、元気な男の子が生まれてきた。この150日の間に、京都と千葉を往復すること8回、のべ70日近くを千葉で過ごしたことになる。こうなると、「暮らした」という方が適切かもしれない。究極の二重生活。小さな男の子たちとの暮らしは、住環境も食生活も京都での暮らしとぜんぜん違っていて、戸惑うことも多く、体調を崩しかける場面もあったが、なんとか乗り切った。これで、ひとやま越えた。
といっても、これで終わりというわけにはいかない。むしろ始まりだ。この二重生活は当分の間続くことになりそう。四連休の初日、帰りの新幹線に乗ったのだが、その混み具合は、まだ旧に復したとはいえないまでも、4月5月の一両にひとりふたりの乗客しか乗っていない異常な空気感のなかで息を潜めて乗っていたことを思うと隔世の感がある。このコロナ騒ぎってなんなんだろう。
五ヶ月のうちの半分留守していたということは、仕事をサボっていたということでもある。コロナ禍の最中で実際に稽古する人数は大きく減ってしまっていたことは事実だが、稽古できる環境を準備できなかったことで、迷惑をかけてしまったこともたしか。これからも、月の三分の一程度は留守することになりそうだが、少なくとも、稽古日程はあらかじめ出せるようにしたいと思っている。
それでも、ひとやま越えたという安堵感はある。
2020年9月20日日曜日
2020年9月11日金曜日
2020年8月31日月曜日
2020年8月19日水曜日
お勉強
整体を学ぶことを「お勉強」にしている人が多くて困る。
そもそも、この「お勉強」というのはなんなのか?
長年の学校教育の中で形成されてきた、インプットの量とアウトプットの量は相関関係にあるという観念のことを揶揄して「お勉強」と呼んでいるのだろうと思う。このマインドセットは相当に強固で、いまの日本の学校教育における決定的弱点になっている。
とはいえ、稽古場が始まったころの自分自身を振り返れば、かなり重度のお勉強主義者だったことにいきあたる。つまり、正解欲しい病なのですね。そのようなマインドセットを自分で毀そう毀そうとしてきた割には、ぜんぜん毀れていなかった。一つのことを学ぶ。なにかができた気がする。すると、翌日、その学んだことをちゃぶ台をひっくり返すように否定される。この繰り返し。これを繰り返していながら、こころのどこかで、「ぼちぼち決定版がでてくるんじゃないのか」と正解を期待している。あるときーだから、稽古場がはじまって十年くらいしたころですーひょっとして、正解って永遠にでてこないんじゃないのか?という疑問が生まれた。
動きのなかだけに真実はあるんだ、というビジョンが観えたのはいつのことだったか。上で書いたような疑問が生まれてから、そう時間が経っていたようには思わない。夢の中だったか、起きているときだったか覚えてないけれど、一瞬だけ、「動いていることが本質なんだ」というビジョン(そう、視覚的なものでした)がやってきて、それはあっという間に消えた。どうにも言語化しづらい体験。稽古が楽しくなったのは、ここからかもしれない。
そう、努力は報われないのです。
といって、努力なしで結果が出るほど、都合のよい世界であるはずもないのです。努力して、随伴行気のチャートを覚えないとなにも始まらないのです。努力を怠ってはいけない。しかし、その努力が報われるかどうかは神のみぞ知る、という世界なのです。困りますね。
「偶然に賭ける」という表現を師匠はしていたように思うのですが、偶然なにかが起こったとき、学びという出来事が立ちあがるのです。
そもそも、この「お勉強」というのはなんなのか?
長年の学校教育の中で形成されてきた、インプットの量とアウトプットの量は相関関係にあるという観念のことを揶揄して「お勉強」と呼んでいるのだろうと思う。このマインドセットは相当に強固で、いまの日本の学校教育における決定的弱点になっている。
とはいえ、稽古場が始まったころの自分自身を振り返れば、かなり重度のお勉強主義者だったことにいきあたる。つまり、正解欲しい病なのですね。そのようなマインドセットを自分で毀そう毀そうとしてきた割には、ぜんぜん毀れていなかった。一つのことを学ぶ。なにかができた気がする。すると、翌日、その学んだことをちゃぶ台をひっくり返すように否定される。この繰り返し。これを繰り返していながら、こころのどこかで、「ぼちぼち決定版がでてくるんじゃないのか」と正解を期待している。あるときーだから、稽古場がはじまって十年くらいしたころですーひょっとして、正解って永遠にでてこないんじゃないのか?という疑問が生まれた。
動きのなかだけに真実はあるんだ、というビジョンが観えたのはいつのことだったか。上で書いたような疑問が生まれてから、そう時間が経っていたようには思わない。夢の中だったか、起きているときだったか覚えてないけれど、一瞬だけ、「動いていることが本質なんだ」というビジョン(そう、視覚的なものでした)がやってきて、それはあっという間に消えた。どうにも言語化しづらい体験。稽古が楽しくなったのは、ここからかもしれない。
そう、努力は報われないのです。
といって、努力なしで結果が出るほど、都合のよい世界であるはずもないのです。努力して、随伴行気のチャートを覚えないとなにも始まらないのです。努力を怠ってはいけない。しかし、その努力が報われるかどうかは神のみぞ知る、という世界なのです。困りますね。
「偶然に賭ける」という表現を師匠はしていたように思うのですが、偶然なにかが起こったとき、学びという出来事が立ちあがるのです。
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