2026年2月5日木曜日

映像公開

昨秋の「アイリッシュ・ハープと薩摩琵琶で巡る音楽の旅」の映像が公開されています。音も映像も素晴らしいです。

https://youtu.be/8gmYBGBNEZo

2026年2月1日日曜日

Quantum Body?

 As I continued reading Yoko Muronoi's “The Dancer Disappears,” I came across a conversation with an Italian journalist and researcher during Muronoi’s workshop in Rome. Searching the internet for this person, Maria Pia D'Orazi, I found an essay by her about Kasai Akira, one of the Butoh pioneers. In this essay, she mentioned Noguchi Hiroyuki's paper, 'The Idea of the Body in Japanese Culture and its Dismantlement'. I supposed she came to know of the paper through Muronoi. Surprisingly, the title of the paper was "Butoh Training and the Quantum Body". It made strange sense that she had put it that way.

Shintai Kyoiku Kenkyusho the successor to the Seitaiho Kenkyusho,was founded in 1988. Around the same time, the term 'Naikanho' emerged, and 'Kyakkanho' was conceived as its antithesis. Naikan literally means “see inside” and Kyakkan means “see objectively”. Initially, I thought this was rather blunt, but after practicing Doho for over 30 years, I believe the distinction between Naikan and Kyakkkan is valid. 

Changing one's view of the body is not something that can be done overnight. Through practices, one tries to shift one's mindset from Cartesian-Newtonian classical physics to quantum mechanics, so to speak. The real world is based on the former premise, so even if one briefly experiences the latter, one quickly reverts to the former. This cycle repeats. For someone as half-hearted as me, it took a long timen until everything made sense. Once it did, I just thought, 'So that's what it was all about,' and I didn't feel any particular sense of accomplishment. I simply 'understood' the meaning of the practice I had been doing up until then.

Reading D'Orazi's paper, written in English, I find it fascinating to see the struggles she goes through to express bodily activity in a way that breaks away from the Cartesian-Newtonian paradigm. I believe there is more to using quantum physics than analogy, but there is always the risk of it becoming too eccentric. This year, I plan to continue reading Karen Barad's "Meeting the Universe Halfway”

2026年1月30日金曜日


【月刊洛句202601】

2026年1月28日水曜日

1月の読書

ほんのささやかなこと* クレア・キーガン 早川書房 2024
これは王国のかぎ* 荻原規子 理論社 1993
存在しない女たち* キャロライン・クリアド・ペレス 河出書房新社 2020
修験道という生き方* 宮城泰年・田中利典・内山節 新潮選書 2019
一場の夢と消え* 松井今朝子 文藝春秋 2024

2026年1月19日月曜日

京都散歩

京都は歩かないとわかりませんよ
と、訪ねてくる人には話すのだけれど、
一旦暮らしはじめると、歩かなくなる出かけなくなる。
街探検をやっていたのは、最初の数年で、
以後、典型的、かどうかはわからないけど、引きこもりの京都人になってしまった。

京都の地図をひろげて、自分の行動半径を確かめてみた。
京都市内の西北側に住んでいるから、動線は東に南に向かう。
街の中心方向である。ゆるやかな下り方向でもある。
中心地の向こう側にはほとんど出かけないし、
東方向でも、やや上りとなる東、北方面は空白地帯になっている。

いざ、北東方向へ歩きはじめる。
金閣寺をかすめ、仏教大のキャンパスを突き抜け、さらに北に向かう。
ゆるい登り坂を過ぎると、意外にも平坦な土地が広がっている。
一様院という小さなお寺に立ち寄り、さらに北に歩を進め、
今日の目的地と定めた正伝寺の入口にたどり着く。

参道を抜けると小ぶりな建物が現れる。
人影もなく、なんと拝観客は私ひとり。
縁側に坐し、石庭越しに比叡山を望む。この風景を見たボウイは泣いたという。
一人であることをよいことに、座る角度を少しづつ変えてみる。
なんと比叡山を背に、ご本尊に向かったときに現れるまとまり感が、なんとも力強い。
え〜っと驚いて、本堂に入り、広間の真ん中に座り、障子の間から比叡山をみると、
ここが一番落ち着く。

正伝寺を後にして、比叡山を右手に下り道をひたすら降りていく。
ほどなく、賀茂川の河川敷に出る。
御薗橋の上手ということは、上賀茂神社より、さらに上流ということになる。
川幅は、三角デルタあたりに比べ、随分と狭い。
今日はここで打ち止め。






2026年1月15日木曜日

Quantum Body?

室野井さんの「ダンサーは消える」を読み進めていくうちに、ローマでのワークショップの中で、イタリア人記者/研究者との対話が出てくる。その人-Maria Pia D’Orazi-の書いたものをネットで探してみたら、室野井さんとも繋がりのあった笠井叡についての論稿があり、その中では裕之先生の「The Idea of the Body in Japanese Culture and its Dismantlement」の論文にも言及されている。論文のタイトルはなんと「Butoh Training and the Quantum Body」。やっぱり、こういっちゃうんだと、妙に腑に落ちた。

身体教育研究所の前身となる整体法研究所が設立されたのが1988年。それとほぼ同時に、「内観法」という言葉が生まれ、それに対峙する言葉として、「客観法」という言葉が置かれた。当初は、なんとも身も蓋もない言い方だなあ、という印象だったが、こうして、30年以上稽古していると、内観と客観という対比のしかたは、やはり正しかったのだと思う。内観法に代わる、つぎなる名称も考えられているらしい。

身体観を取り替えるというのは一朝一夕でできることではない。稽古稽古で、いってみれば、デカルト=ニュートン的古典物理学思考から、量子力学的思考へ頭の中を切り替えようとしているわけだ。現実世界は、前者を前提として組み立てられているから、いっとき後者的経験をしても、あっという間に、前者に引き戻されてしまう。この繰り返し。僕のように中途半端な者にとっては、これが腑に落ちるまで長い道長い道のりだった。一度腑に落ちると、なんだこんなことだったのかと思うだけで、特段、達成感があるわけではない。これまでやってきた稽古の意味が「わかる」だけ。これで、やっと出発点にたどり着いたということなのかもしれない。

英語で書かれた論文を読んでいると、身体の活動をどのようにデカルト=ニュートンから離れて表現しようとしているか、その苦労のあとが読み取れて興味深い。量子力学の援用にはアナロジー以上のものがあると思っているけれど、キワモノに堕す危険性を常に抱えている。今年も、バラッド「宇宙の途上でで出会う」を読み進めていくことにしよう。

2026年1月6日火曜日

室野井洋子を稽古する

去年のヨーロッパ遠征の余波なのか、海外からの来訪者がポツリポツリとやってくる。
面白いのは、日本滞在中に知り合った友人を引き連れてやってくるというパターン。ウィーンでの稽古会に出たオーストリア人男子が、2回目には、フィンランド人男子2名連れてやってきた。一人は長年舞踏の稽古をしているという。そして3回目になると、今度は、2回目来た人が別の三人目、なんと今度は、日系ウルグアイ人女子を連れてやってくる。いったい、ここでやってることをどのように伝えているのやら。

ここでやっていることに一番食いついてくるのはダンサーたち。ブラジルの田中さん繋がりで、ここ十年の間に十人くらいやってきたんじゃないかしら。みな、見えないものに集注しようとしている。

僕の中で、舞踏といえば室野井洋子ということになる。なんと亡くなって9年経つのだ。亡くなった翌年とその次の年、パートナーの高橋幾郎さんたちが編集し、出版にこぎつけた「ダンサーは消える」「踊る身体」を開いてみると、室野井さんが、そこに居る。後者は稽古記録のまとめである。室野井さんの稽古を言語化する力に舌を巻く。このテキストを使えるのは、きっと僕しかいない。今年は室野井洋子を稽古してみようと思う。