2021年7月31日土曜日

7月の読書

エクソダス* 村山祐介 新潮社 2020
100分de名著 オルテガ 中島岳志 NHK出版 2019
山と獣と肉と皮* 繁延あづさ 亜紀書房 2020
食べること出すこと* 頭木弘樹 医学書院 2020
世界まちかど地政学NEXT*   藻谷浩介 文藝春秋 2019 
進化する里山資本主義* 藻谷浩介監修 JTS推進コンソーシアム 2020 
これからの天皇制* 原武史他 春秋社 2020

2021年7月27日火曜日

白誌を稽古するー7月

白誌3号、二年前7月の稽古
外の動きと裡の動きを連動させる、そして逆転させる
さらに内観を取り替える
外は動かさず、裡の感覚だけ先に動かす
むかし、再現法と呼んでいた稽古でもある
相手の感覚経験を自分のなかで再現する
つまりマネする
歪めるということの意味がわかりはじめる
他者を師とする

最適解

最適解ってなんなのと訊かれた。
わかりやすくいえば、数ある選択肢の中のどれを選ぶのがベストなのかという話。
たとえば、今回の次男坊家出事件。東京駅にたどり着く前に引き返すところから、「ジージんちの子どもになる」ところまで千通りの可能性があったはずで、そのすべての可能性を排除することなしに、刻刻変化していく状況の中でベストな答えを探っていくということ。「ジージんちの子どもになる」なんて可能性はゼロでしょ、と言われても、ぜんぜんゼロではない。もし、次男坊が京都にいる間に、関東に大地震が来たら、そのまま、僕らが育てなきゃならない可能性だってある。もちろん、その逆のケースだってあり得るわけだけれど。そういう千通りの可能性引き受ける覚悟を踏まえた上でのこれしかないという答え、それを僕は最適解と呼んでいる。解決案とはちがうし、妥協案でもない。

僕の千葉通いについても同じことがいえる。
別に、娘に頼まれて千葉通いをはじめたわけではない。千通りの可能性の中から、その道が選択された。選択されたというより、それが最適解として立ち現れたという方が、僕の実感に近い。「娘さんたちと同居しちゃいなさいよ」とアドバイスをしてくれる人もいたが、その言葉が娘に寄り添った親切心から出てきていることは認めるとして、僕のこれまでの人生へのリスペクトの欠如と、その安易さに脱力した記憶がある。ひとつの解決案であったかもしれないが、それは最適解ではないだろう。

最適解が、唯一の道として、いきなり現れることもある。6年前の京都引っ越しがそうだった。その後の大変動を振り返ると、われながら苦笑するしかないのだけれど。

気ばたらき

 「気が利く」「気配り」「気がつく」といった「気」を含んだ言葉は日常会話の中で頻繁に使われる。あまり使われてないが「気働き」という言葉もある。晴哉先生は、この「気働き」ができなければ整体はできないと仰っている。ただ、この気働きということがこれまでよくわからなかった。ところがあるとき、ママが発した独り言を聞き取って先回りしてお手伝いする、今回家出してきた三歳児の姿をみて、なるほど「気働き」とはこういうものなのかと腑に落ちた経験がある。長男、一人っ子にはなかなかできない過剰のない自然な動き方なのだ。

2021年7月26日月曜日

次男坊の大冒険 3

 ママに失恋した記憶が強烈に残ってるんだ。次男の頑なさの元を探っていくとこういうことになる。きっと、次男一般、そんな傷を負って生きてきてるんだろうなと想像する。僕は長男だし、娘は一人っ子だから、次男の気持ちはわからない。娘には、一人でお迎えに来られればいいねとアドバイス。ただ、子供二人置いてでかけてくるのはハードルが高い。 

 二日目の夜は三人とも爆睡。朝9時近くまで寝てしまった。気がつくと娘から「今日、一人で日帰りでお迎えにくる」とのラインが入っている。お、なかなかやるな。せっかくだから、トロッコ列車に乗せてあげようと計画するが、子供二人置いてきているので、早めに帰るしかないらしく、我が家にも寄らず、京都駅で待ち合わせることにした。次男には内緒。さて、どうなっちゃうんだろう。
 
 京都駅までバスで移動。駅は思いの外閑散としていて、お昼時なのに待ち合わせ場所にしたイノダの前に席待ちの行列もなく、すんなり席に案内される。僕はステーキランチ、ネーネはあんみつ、次男はフルーツパフェを注文。品物が出てきた頃、ママ到着。が、次男無言で黙々とパフェに向かう。大人同士の会話がはじまり、時折、次男に言葉をかけても、ひたすらパフェに向かう。ママが注文したケーキを「食べる?」と訊かれたあたりから、ようやく声が出てくる。この場に及んで「ジージんちの子になる」と言い出したらどうしようと、どきどきしながらジージとネーネは親子の会話を聞いている。

  「ママと新幹線で帰る」という言葉が発せられたときには、一気に緊張が緩んだ。そこからはもう手のひら返しで、さっさとバイバイと手を振って、野外保育の仲間たちにお土産を買うのだと、ママと手をつないでイノダを出ていった。

  いや〜。まったく楽しい三日間だったよ。そして、間違いなく、これが最適解。

2021年7月24日土曜日

次男坊の大冒険 2

 着替え荷物の中に、紙パンツも歯ブラシも入ってないことを発見し夜の買い出しに。野外保育で野山を歩き回っているから体力はあるのだが、コンクリートの上を歩くには不慣れな様子で、途中、ちゃっかりネーネに抱っこしてもらっている。最初に入ったドラッグストア。なんと紙パンツ置いてないという。大人用紙パンツは山とあるのに。少子高齢化日本の現実にいささかショックを受ける。二軒目のお店には置いていたのでことなきを得る。月を見ながら三人連れで歩いていると、三十年前の子育てしていた時代が甦る。三歳児、やや不安そうな表情を見せるが、元気を装っている。

  移動の疲れが出たのか、9時過ぎには寝てしまい、翌日は6時にお目覚め。元気やな〜。三人サンダル履きで朝の散歩にでかけることにした。開放されている開門時間前の龍安寺のお庭へ。池は蓮の花でにぎやか。ウォーキングの人も多い。子連れが珍しいのか声を掛けられる。娘んちの子どもたち、挨拶だけはちゃんとするので、みなさん目を細める。帰ってきて、バナナとヨーグルトの朝食。まだ9時前だ。心細げな表情を時折見せるのだけれど、気丈に振る舞っている。午前中、ネーネと約束しいてた絵本を借りに図書館へ。次から次へ、絵本を渡してくる。借り出し枠全部使い、十冊借りる。絵本重い。暑いし重いし、思わず普段乗らないタクシーで帰宅。

 夕方、ママにテレビ電話を掛ける。画面の向こうにはママと居残りの兄弟ふたり。長男は少し羨ましそう。次男は相変わらず平気を装っている。決して弱音を吐かない。ママに当てつけるように「ジージんちの子になる」とおっしゃる。なんでこんなに頑ななんだろう。こんな性格だと真意が伝わらなくて将来大失恋しちゃうぞ、とジージとネーネは不憫に思う。



2021年7月22日木曜日

Charles Marshall Concert

公開講話でもよく名前の出てくる薩摩琵琶弾きチャーリー・マーシャル氏が本職のパイプオルガン演奏をしている最近の映像が届いたのでシェアします。

 

2021年7月21日水曜日

次男坊の大冒険 1

 「ジージんちに行く〜」と着替えをリュックに詰めて出発をせかす三歳児(正確には三歳半)。その勢いに気圧されて僕も荷物をまとめはじめる。これまで何度も同じ会話をしてきたけれど、今回はなぜか本気度がちがう。

 三人兄弟の真ん中というのはなかなか大変だ。仲は良いのだけれど、一歳上のお兄ちゃんには知力腕力ともかなわない。ときには理不尽と思われる暴力を加えられる。生後十ヶ月になったばかりの下の子にはみんなの注意が集まる。三兄弟を観察するようになって、「三人寄れば社会ができる」という晴哉先生の言葉が腑に落ちた。長男がお泊りキャンプで留守したときの次男の穏やかな顔。いつも八つ当たりしている三男にも優しく接していた。

 その次男がどうしてもジージんちに行くと主張する。ジージんちの子供になるとまでおっしゃる。三歳児にも家出願望ってあるんだと感心。しかし、普通それを実現しようと行動するか? 連れて帰るのはいいんだけれど、いつ連れ戻せるか計算が立たない。なんせ、京都は千葉から遠い。家出幇助の旅はこうしてはじまった。

 千葉に通いはじめて一年と四ヶ月。慣れたといえば慣れた。ただ、子連れでの移動ははじめてで、だいぶ勝手が違う。日暮里経由で移動したのだけれど、え、東京駅ってこんなに遠かったっけと、いきなり距離時間感覚がひとりのときと随分違うことに戸惑う。新幹線に乗っても、「京都まだ〜」という孫の問いに、「京都遠いね〜」と答え、こんな長距離移動を毎月繰り返してきたことに我ながら驚く。5時間かけて我が家に到着。電車5本を乗り継いでやってきたことになる。よく来たな〜、三歳児。

2021年7月14日水曜日

石川合同稽古会8月

石川合同稽古会

8月7日(土) 13時〜18時半 遠藤日向x覚張幸子
  金沢稽古場
8月8日(日) 10時〜15時半 角南和宏x覚張幸子
  白山市松任ふるさと館

会費  一日五千円

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8月に石川合同稽古会やります
日程は8月7日と8日の土日二日間
前回同様、初日は金沢稽古場、二日目は松任ふるさと館が会場 
三人目の担当者として覚張幸子さんを予定しています 
ということは、気韻の稽古が入ります 
詳細はこの月末の京都稽古会の折に詰め、来月はじめに発表 
なんと6回目
(6/25)

2021年7月9日金曜日

稽古場的日本語

ここ2ヶ月オンラインで稽古しているLinaさん宛に、「ZOOMで稽古は可能か?」を訳して送ってあげようと、まずはGoogle翻訳に下訳をお願いしてみた。昔に比べると随分マシになっているとはいえ、そのままでは使えない。元の文章で主語が曖昧になっているせいでもある。これを手直ししてメールすることにした。英語で手紙を書くこと自体ずいぶん久しぶりだ。Gmailって文法的な誤りを指摘してくれるのね。これには、ちょっと驚いた。

機械翻訳が進化したことは認める。下訳の役にも立ってくれる。日本語の主語を明確化すれば、より正確な英語にしてくれる。しかし、稽古場的表現をどのように翻訳してくれるのだろう。ちょっと試してみる。例えば、こんな具合。上段が日本語、下段がgoogle翻訳。

後頭部から目を入れて、その目を顔の裏側に届かせてください。
 Put your eyes on the back of your head and bring your eyes to the back of your face.

実際、このような日本語をぼくらは違和感なく使っている。しかし、よくよく考えると、日本語ネイティヴにとっても、なかなかすごい日本語なのだ。翻訳された英語の文章を読んで、さほどの違和感を感じないところがぼくらの問題であるといえなくはないのだが、これを字義通り解釈しようとすると、とんでもない情景が浮かんでくる。極端な話、目をえぐり取って、それを後頭骨に押し付け、頭部を貫通させて目の奥に押し込む、といったホラーな風景を想像する人が現れたとしても不思議ではない。

それはあんまりなので、日本語を変えてみる。

後頭部に風を感じ、その風を顔の裏側まで届かせてください。
Feel the wind on the back of your head and let it reach the back of your face.

この方が、だいぶマイルドで、日本語ネイティブにとっても、こんな日本語だと、きっとわかりやすい。英文もだいぶましなかんじ。でも、ここでfeelという動詞を使ってしまうと、この先、厄介な問題が出てくる。万事がこんな調子。考えてみると、ぼくらは、長い時間をかけて内観的身体語という言語空間をつくりあげ、この言葉が通用する範囲を広げようとしてきたのだ。もちろん、「古典」を参照しながら。

2021年7月6日火曜日

白誌を稽古する

本部稽古場で稽古していた頃、最後の方は、年長者のお相手をすることが多かった。年長者というのは手ごわくて、稽古の実習に入っても、ダン先生の話されている手順をずんずん無視して、どんどん自分勝手に稽古を進めていくので、困ってしまう。いまから思うと、あの強引さは、単純に耳が遠くなって、ダン先生の声が聞こえてなかったからではないかと思うのだが、実際のところはどうだったのだろう。ここ数年、僕自身、耳が遠くなり、月末三日間の稽古会に出ているにもかかわらず、裕之先生の話が聞き取りにくくなり、いまや、かつての年長者のようにトンチンカンなことばかりやっている。マジで「引退」という言葉がちらついている状態。でも、このまま引退するのはくやしいではないか。聴力リハビリをやろうとか、補聴器を使ってみようかしら、などと思わないではないが、同時に、それもちょっと違うな〜と思うのだ。

白誌は身体教育研究所の有料機関誌。一年遅れで京都稽古会の記録がまとめられてやってくる。昨年はバタバタしていて、まともに読み直す余裕がなかった。春頃なって、一年分12回分のPDF(昨年はPDF購読)をプリントアウトしてみたら、とんでもない厚さになったので驚いた。ここまでの形にするために投入された労力を思うと、これに関わっている人たちには敬意しかない。裕之先生の講義・稽古録を活字化していくというのは、僕が事務局にいた時代からの懸案事項だったけれど、それが白誌というかたちで軌道に乗ったことを素直に喜びたい。

はじめに書いたように、近年、裕之先生の講義をリアルタイムでフォローできないという焦燥感に囚われている。そのくせ、その場に居るだけで、他の参加者に釣られて一緒に笑っていたりするのだから不思議だ。一年という時差があるものの、白誌を通して講義を「読める」ことはありがたい。京都三日間でやっている内容と、ここ等持院でやっている稽古の乖離には、いつも呆然とするのだけれど、この先、白誌に収められている内容をもとに等持院で稽古していくというスタイルもありのような気がする。白誌「で」稽古するではなくて白誌「を」稽古するがふさわしいだろう。うん、やってみよう。

2021年7月1日木曜日

ZOOMで稽古は可能か

狭い稽古場に三脚に載せたiPadを持ち込みZOOMを起動する。手元のiPhoneの画面には翻訳ソフト。この時点で稽古会としてはすでに大減点。やむおえずはじめたリモート稽古。相手はベルリン在住のコロンビア出身のダンサー・コレオグラファー。本当ならアーティスト・レジデンシー・プログラムで今頃京都ライフを楽しんでいるはずだったのに、コロナ騒動でなんとオンライン・レジデンシー・プログラムになってしまったとのこと。語彙矛盾ではないか。

さて、ZOOMで稽古は可能か? 
限りなくノーに近いイエスとでもいうか、いくつかの前提条件が整えば、かろうじて稽古は可能かもしれないというのが、ここ一ヶ月半試行錯誤してたどり着いた結論。しかし、ほんとのところ実に心許ない。

前提条件 その1 すでに稽古に触れたことがある
 今、一緒に稽古しているLさんは、サンパウロにあるPUCという大学の出身。そこで、田中敏行さんのクラスに出た経験がある。十年も前のことらしいけれど…。彼女が僕のところにたどりついたのは、そもそも田中さんの経由。彼女と話したり、作品を見せてもらった限り、稽古との親和性はありそうだし、動法からヒントを得ている部分もうっすらと感じられる。いずれにしても田中さんのところでの経験なしに、オンラインでの稽古は考えられない。今、「空気」に関心があるとのことなので、「見えないものに集注する」という稽古から始めた。

前提条件 その2 複数人の人が向こう側にいる
 初回は1対1でやってみたのだが、「あ、こりゃだめだ」ということがすぐわかった。画面越しのface to faceというのは駄目ですね。稽古にならない。苦肉の策として、お互いに相棒を用意することにした。こっちも二人、向こうも二人というスタイル。これで、少し稽古風景らしくなった。こちら側でデモンストレーションをやり、それを向こうでもやってもらう。チェック役がいるだけで、全然違ってくる。田中さんの元生徒が何人かベルリンに居るらしい。田中組おそるべし。

前提条件 その3 いつかリアルな場での稽古できるという可能性を有している
 この先、リアルな場で一緒に稽古できるという保証はまるでない。しかし、それを前提としないことには、やってられない。隔靴掻痒感が強すぎる。つまり、オンラインだけで稽古が完結することはありえない。はたして、こちらが意図していることが、どれだけ伝わっているか確認する機会がいつかやってくることをお互いに祈念しない限り無理。

ZOOMで稽古するくらいなら、自己隔離の期間が必要としても、生身の体をこっちに運んだほうが良策のように思えるのだけれど、そういうわけにもいかないらしい。オンライン・レジデンシー・プログラムはあとひと月続く。