最適解ってなんなのと訊かれた。
わかりやすくいえば、数ある選択肢の中のどれを選ぶのがベストなのかという話。
たとえば、今回の次男坊家出事件。東京駅にたどり着く前に引き返すところから、「ジージんちの子どもになる」ところまで千通りの可能性があったはずで、そのすべての可能性を排除することなしに、刻刻変化していく状況の中でベストな答えを探っていくということ。「ジージんちの子どもになる」なんて可能性はゼロでしょ、と言われても、ぜんぜんゼロではない。もし、次男坊が京都にいる間に、関東に大地震が来たら、そのまま、僕らが育てなきゃならない可能性だってある。もちろん、その逆のケースだってあり得るわけだけれど。そういう千通りの可能性引き受ける覚悟を踏まえた上でのこれしかないという答え、それを僕は最適解と呼んでいる。解決案とはちがうし、妥協案でもない。
僕の千葉通いについても同じことがいえる。
別に、娘に頼まれて千葉通いをはじめたわけではない。千通りの可能性の中から、その道が選択された。選択されたというより、それが最適解として立ち現れたという方が、僕の実感に近い。「娘さんたちと同居しちゃいなさいよ」とアドバイスをしてくれる人もいたが、その言葉が娘に寄り添った親切心から出てきていることは認めるとして、僕のこれまでの人生へのリスペクトの欠如と、その安易さに脱力した記憶がある。ひとつの解決案であったかもしれないが、それは最適解ではないだろう。
最適解が、唯一の道として、いきなり現れることもある。6年前の京都引っ越しがそうだった。その後の大変動を振り返ると、われながら苦笑するしかないのだけれど。