2021年12月4日土曜日

水掛論

 水掛論という言葉が狂言の「水掛聟(みずかけむこ)」に由来するという説があるらしいけれど、どうだろう。英語で水掛論をどう表現するのかというと「he said/she said argumentと言うらしい。まったく、身も蓋もないというか、実によくわかる。そもそもなんで水掛論になるかというと、それぞれが自分が正しいと思っているからで、しかも、言葉で相手を説得できると信じている。

この点、体癖論は、人と人は理解し合えないという前提で組み立てられている。体癖論というのは感受性の方向によって形づくられた個人を10種に分けたものである。人間は当然のことだけど、自分を標準に物事を判断するし、その判断が普遍的なものだと信じている。たしかに、そう思えないと人間生きていけない。ところが、体癖論ではその標準を10本設定している。言い換えれば、人類全部で共有できる標準とか普遍性を出発点としていない。真逆のリアリズムから出発している。もちろんその前に、みんな生きているという大前提があるのだけれど。


体癖論が形成されていく最初期、この類型を、あの人はキリン型とか、あの人はアライグマ型とか動物に喩えたこともあったらしい。キリンとアライグマはお互いに理解しあえるか、という大問題。実際のところ、動物園にでも行かない限り、キリンとアライグマという異種が同居することはない。ところが、人間は同じ種として同居している。ここが実に厄介なところでもあり、また面白いところでもある。


環世界という考え方が生物学にある。ユクスキュルという生物哲学者が提唱したもので、「すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きている」というものらしい。それはそうだ、動物ごとに見えている世界は違い、生きている世界も違うだろう。体癖論もこれに近い。問題は、人間の方は、みんな同じ世界に生きていると信じている。あるいは社会的に形成された一律の標準に沿って生きなければいけないと信じ込まされてる。


整体論の醍醐味は、この、もともと理解不能な人間同士が、どのように同調し得るのか、どのように自らを閉じ込めている体癖世界を乗り越えられるかを追求しているところにある。この自他のズレ〜ズレというには大きすぎたり、時間的に隔絶しすぎたりするのだけれど〜を愉しむ能力を育てようというのが整体の世界なのです。ある意味面倒くさい世界。でも、面倒くさいなんて言ってたら生きていけない。


なぜ、水掛論について考えはじめたのか?

日々悩まされているからです。