2009年6月19日金曜日
阿部青鞋
1960年代前半、岡山の田舎町での話である
以下は、このブログをはじめる大分前(2002)に書いた文章
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■阿部青鞋(せいあい)という俳人の名前を知ったのは数年前、父母の句集のなかである。母の略歴のなかに「阿部青鞋先生に短歌の手ほどきをうける」とあった。そこではじめて、私の最初の英語の先生が「阿部先生」であったことを思い出した。はたして、俳人阿部青鞋と「阿部先生」は同一人物であったのだが、どうして東京生まれの俳人が岡山の田舎町に住みはじめたのか。
■調べてみるとなかなか面白い経歴をもつ人である。大正三年(1914)に東京に生まれ、1945年の終戦直前に岡山に疎開するまでは、軍隊に召集されていた時期を除き、ずっと東京にいたらしい。そんな人物が、どいういう経緯で岡山に疎開したかは謎。しかし、以後、昭和53年(1978)までの33年間、岡山県英田郡美作町に居住したとある。美作町に住みはじめて14年後、「米人宣教師の通訳を務めるうち聖書に親しんで受洗」(1959)とあり、その四年後には自ら牧師となっている。私が英語を習ったのは、この頃らしい。住んでいた町内会の建物を寺子屋のようにして英語を教えていた。飄々とした風貌で、モダンな空気をいつも身にまとっていたのをうっすら覚えている。
■横浜市立図書館に唯一あった、『俳句の魅力ー阿部青鞋選集』(沖積社 1994)を借り出して読んでみた。妹尾健太郎という人が編んだもので、阿部青鞋の句、随筆等が集められ、前段の略歴はこの本の巻末におさめられている「略年譜」からの引用である。新興俳句の旗手であった渡辺白泉らとも親交が深く、昭和15年頃、新興俳句が弾圧を受けてからは、ひたすら古典の研究に励んだとある。
■極めて個人的なつながりから阿部青鞋という人の足取りをたどっているのだが、残された俳句は素人目にも面白い。俳句の世界では、おそらく傍流に属していたのであろうし、政治的に動くタイプの人物ではなさそうである。俳壇という閉じられた世界にこだわっていた様子もなく、どことなくコスモポリタン。カラッとしたユーモアが基音として流れている。
うかんむりの空を見乍ら散歩する (青鞋)
【気刊あざみ野通信 199 2002/8/14】
2008年4月22日火曜日
お茶を稽古する
長く生きていると、じつにいろんなことが起こる。五十歳すぎてからお茶を習い始め、それが四年たったいまも続いているなどということは、かつての自分からは空想もできなかったことである。最初の二年は、杉浦くんと二人で月二回、せっせと橋さんのところに通った。盆点前で、袱紗さばきにはじまり、お茶の点て方を一通り教わった。むさくるしい男二人を前に、橋さんには、ご苦労をおかけしたが、こちらも、お茶と毎回かわるお菓子を目当てに通っていたようなもので、小さな子供が、お菓子食べたさにお茶のお稽古に通ったという話を笑えない。盆点前とはいえ、お茶の基本的な所作はすべて含まれているわけで、通しでやるとなるとなかなかむずかしい。もともとなにかを覚えようという意欲が乏しく、そのうえおさらいなど一切やらないので、一年たっても二年たっても上達したという自覚をもてない。稽古場では動法を教える立場であるのに、橋さんの前では、「ちゃんと脇を張って」などと叱られてばかりである。叱られる心地というのは、なかなかよい。
それでも半年を過ぎ、一年が近くなり、ひととおりの点前を終えると、今度はお茶会を開きなさいと言い渡されることとなる。デパ地下のお菓子売り場に、客に出すお茶菓子を買いに行くところからはじめ、客を迎え、その前でお茶を点て、喫していただく。私が呼んだのは自分の家族であったとはいえ、緊張しまくり、それでなくてもあやうい所作を飛ばしまくる。ほとんど学芸会の児童状態。亭主の役を務めたとはいえ、脇に橋さんがいなければ成り立たなかったお茶会であった。
お茶会が終わると、今度は稽古の場がお茶室に移る。盆点前と同じよと言われるものの、盆点前でやったことではまるで歯が立たない。厳しい。水屋で茶道具の用意をして、それらをお茶室の中に運び込むところからして難題つづき。ただ手順が複雑になるぶん、点てられるお茶の味は歴然と変わる。お茶の世界における音というのは、じつに不思議で、お茶碗に茶筅をコツリと当てる、柄杓を水蓋の上に、コッと置く、柄杓からお茶碗にお湯を注ぐ、あるいは客がゴクリとお茶を飲み干す。このような一連の音によって、風景が進んで行く。最初聞こえていた屋外からの人の声、車の音が遠のいてゆき、静かな集注の世界に入っていく。はじめがあり、途中の展開があり、そして終わりがやってくる。これがお茶の醍醐味なのかもしれない。
動作がつかえる時がある。時々ではなく始終ある。手順がうろ覚えということもあるが、たいがい何か違うことをやろうとしている時に止まる。しかたなく、そこでしばし佇んでいると、「こっち」という道が見えてくる。そっちに動き出すと、「ああ、こっちなのだ」と体がついて動いていく。そうはじめに流れありきなのだ。流れの中に自分の所作がぴたっとはまると、すらすらといく。どうしてこれが整体でできないんだと、つくづく思う。
お茶室に入って一年もたたないうちに、杉浦くんは名古屋に稽古場を開くことになり、以後、橋さんと一対一の稽古になった。それからすでに二年がたつ。
2004年5月29日土曜日
禁糖2004
2003年12月24日水曜日
大人の気分
2002年1月3日木曜日
「動法」 ー 異文化としての日本的身体技法
1998年4月3日金曜日
群馬の友
■新幹線から一人で降りてきた娘の表情はさすがに硬かった。一時間の道のりとはいえ、たったひとりの新幹線の旅は心細かったはずだ。娘はその朝収穫したばかりという卵を二つ大事そうに持ち帰った。ハムスターの小屋からペットヒーターを取り出し(その直後、春の寒波が襲い、ハムスターは震えていた)、それを紙の箱に入れ、簡易の孵卵器をこしらえた。35度の温度で3週間暖め続けると雛が孵るという。卵が有精卵であるという保証はないが、雛が孵る日を待っている。
■私たち家族が竹渕さん夫婦を群馬に訪ねたのが3日前。竹渕さんと私は20年来の友人ということになるが、竹渕さん夫婦は8年前、百姓をするために群馬の田舎に入り、以来、田圃や畑を借りながら農業を続けている。2年ほど前からは鶏も飼いはじめ、最近、竹渕さんから送られてきた卵の味に感動した妻と娘にせがまれて、今回の訪問が実現した。娘にとって、家では飼ってもらえないイヌやネコがいることが魅力だったらしい。鶏舎に入り鶏に餌を与え、卵を収穫し、その卵を丁寧に拭き箱詰めしていく。今年から借りたという栗林を案内してもらい、イヌを連れて近所を散歩する。そして夜は車で15分ほどのところにある温泉へ。ふわふわした土の感触が心地よく、人工物の少ない風景が目に優しい。
■私たち夫婦は都合で一泊しかできない。子供同士のキャンプで何日か親元を離れたことはあるが、これまで親から離れようとしなかった娘である。しかし、動物たちと過ごす魅力が不安を上回ったらしく娘は居残りを決めた。二泊三日のホームステイ。
■娘の荷物の中に竹渕さんからの手紙が入っていた。「楽しい3日間をありがとう」とある。子供のいない竹渕さん夫婦にとって、娘の存在はいい刺激になったらしい。ずいぶん気遣ってくれた様子が記されている。十歳にもなると親子関係も難しくなってくる。そういう時期に、親以外に信頼できる大人がいることを子供に伝えておくことは大切だろう。三者三様の波紋をそれぞれの中に残し、春の三日間は過ぎていった。
1992年3月12日木曜日
百年という時間
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『情報の歴史』(NTT出版)という年表で構成されている本がある。国境というものをとっぱらい、ジャンル別に出来事を並べている。ボーダーレスの時代にふさわしい編集の仕方だと思うし、現代に限らなくても、世界各地の出来事というのは、”連関性”をもち、また、”共時性”を有していたということがわかる。 その本の1952年の頁を開いてみる。僕の生まれた年であり、昭和でいうと27年になる。そのなかで、目につくところを列挙すると次のようになる。
○吉田首相、自衛のための戦力は憲法第9条に反しないと答弁
○血のメーデー事件発生
○ナセルらクーデーターに成功
○初の原子力潜水艦ノーチラス建艦着工
○日本電電公社発足
○ビデオテープ登場
○ペンフィールド、ヒトの脳の機能地図作成
○フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』
○クレマン『禁じられた遊び』
○チャップリン『ライムライト』
○ヘミングウエイ『老人と海』
○手塚治虫『鉄腕アトム』
○ラジオ受信契約台数1000万台突破
これらの出来事の羅列を一瞥するだけで、いかに自分が「時代の申し子」であったかを理解する。PKOも第3世界もマス・コミュニケーションも、現在あるものの全ては1952年にすでにあったのだ。ただ、胞子の段階から、60年代、70年代の高度成長期を通過することとで、「量的」に一気に拡大し、その量が生活の「質」を変えてしまった。僕の世代の成長は、この拡大の波とと共にあったといってよい。1952年、僕の父親は27才、母親は21才だったはずであるから、現在の僕の歳よりもひと回り若い。この世代の人たちは、自分たちの生きてきた時代をどのように捉らえているのだろうか。
ここから、更に40年遡り、1912年の頁を開く。明治から大正へのかわり目の年である。同様に、目につく出来事を列挙する。
○中華民国成立
○犬養毅・頭山満、孫文と会見
○チベット独立運動
○明治天皇崩御、大正天皇即位
○ラスプーチン、宮廷に進出
○ベスト・ポケット・コダック発売、世界各国に普及
○早川徳次、金属加工業を設立(のちのシャープ)
○ユングとアドラー、フロイドから離脱
○大杉栄、荒畑寒村ら「近代思想」創刊
○マリア・モンテソッリ、モンテソッリ学校運動創始
○乃木希典大将夫妻殉死、文壇を震撼
○新世界、通天閣完成、吉本興業誕生
ここから52年までの40年の間に、第一次、第二次の二つの世界大戦を経験することになる。父母はまだ生まれておらず、祖父母の時代である。これくらい遡ると、90歳をこえた人とでも話さない限り臨場感をもった話はもはや聞けない。逆にいうと、この時代を生きていた人は、現存するわけだから、歴史の彼方の時代とはまだ言えない。僕の祖父母は、父方、母方、それぞれ80近くまで生きていた。とくに母方の祖父は身近にいたから、「町に汽車がはじめてやってきた日」の話など、 当時のことを沢山聞いた。 日露戦争には行ったのだろうか。夏目漱石が『彼岸過迄』『行人』を朝日新聞に連載していたのがこの年。野口晴哉という人も、この時期に生まれているはずだ。
もう一度、40年ジャンプして1872年を開いてみる。現在から120年前、明治4年になる。
○徴兵令公布、学制発布
○日本の人口3300万人
○福沢諭吉ー『学問のすすめ』
○ガス灯、横浜で点火
○東京ー品川間鉄道開通 ○バクーニン、無政府党を創設
○ルイ・パストゥール、微生物と醗酵作用に関する論文発表
○イエローストーン、アメリカで最初の国立公園に指定される
○セザンヌ、モネ
さすがに、ここまで遡ってくると、かなり想像力を働かせないと、時代の雰囲気というものは思い浮かんでこない。しかし、印象派の画家たちの名前が出てくると、身近に感じてしまうから面白い。江戸から明治へ時代が変ってすぐの頃である。
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20代後半までの僕は、ひたすら空間的、地理的に動くことをよしとしてきた。今頃になって、時間、歴史というものに興味が向いてきたというのも、単純に、空間的に移動できないことへの不満(僕の行動能力と元子の可動性とは明らかに連動している)と、年取ったという諦観がないまぜになった結果と言えるのかもしれない。ただ、空間的に動くということ自体、すでに時間軸を動くことを含んでいる(こう書いてしまうと、あまりに藤原新也的であるようだが、どう考えても、東京とケララでは時間の流れかたが違うし、生きている時代も違う)から、これまでも、時間を駆ける旅をしてきたことになるのかもしれぬ。
去年は、モーツァルト没後 200年で賑わったし、今年は、芭蕉の「奥の細道」から 300年だそうである。遥か昔の人たちのようだが、その時代を同時代人として生きた僕ら自身の先祖がいるのかと思うと何だか愉快である。
【あざみ野通信 049 1992.3.12】