2012年11月9日金曜日

なぜ身体教育なのか? 6

【客】

 先日、大井町稽古場を見学に来たスイスの人に、「あなたがやっていることは治療なのか」という質問を受けた。手を触れる人がいて、触れられる人はうつ伏せに寝ている風景を見れば通俗的な治療形態に見えてしまうのかもしれない。ただ、治療という概念には、あらかじめ治療する人と治療されるという役割分担が内蔵されている。そのような役割分担のない関係をつくりあげ、そのような関係の中で起こる出来事を体験することが、私たちの目指すところであり、そういう意味において私たちの行なっていることは治療ではない。
 動法の稽古等、動きものの稽古風景をみれば、私たちのやってることは体育として理解されやすい。しかし、前述の風景を含め、体育と称している。まず受ける側にそれ相応の嗜みを求めている。坐法臥法というものを定め、毛氈の上での立ち振舞をまず覚えていただく。いわばお茶室に入るように毛氈の中に入っていただく。お茶室に客として入った人間が、放縦に振舞っていたのではお茶会が成り立たず、客としての素養が問われることになる。それと同じである。この客としての嗜みを育てることこそが、私たちが体育とよんでいるものであるのかもしれない。
 いつから客という言葉が消費者を意味する言葉になってしまったのか。伝統芸能とよばれているものが衰退の道を歩んでいるのも、この客という感覚が薄れていっていることと対応している。客という言葉の本来の意味を今一度噛み締める必要がある。

2012年11月8日木曜日

漫才のような日々

娘の友だちのダンス発表会を見に行くという妻に
「今日の発表会に鳳なんとかさんもでるんだっけ」と訊ねると
「そうよ。元宝塚の...」
「鳳唄子だっけ?」
「えっ?」
「いや、あれは京唄子だ」(鳳啓助とまぜこぜになっている)
「ふたりとも口大きいよね」
「???」(東の人である妻に上方漫才の話は通じない)
「鳳蘭だったのか。そういえば、月刊全生の昭子さんの文章に鳳さんの名前が出てたよね? あれって、鳳蘭なの? 鳳蘭っていくつ?」
「50代じゃないの?」
(wikiで調べる)
「60代半ばじゃないか。それならアサちゃんが5歳として、年代的にはあり得るね」
(再びwikiで調べると、宝塚卒業後の初舞台が1981年になっている)
「ちょっと時代が合わない」
(再びwikiで「鳳」「宝塚」「劇団欅」で調べる)
「鳳八千代か? 知ってる? 水戸黄門に出てた人らしいよ」
「しらない」

と、こうやって文字化してみると、結構一方的な会話だ
しかも中身がない
この中身のなさこそが、夫婦の会話の真髄であるとも言えるw

*発表会じゃなくて「公演」と呼ばなきゃいけなかったようです
 主宰者は名倉加代子さんという著名な振付家だそう

2012年11月7日水曜日

why body education? III


[Colds and their Benefits]

 Noguchi wrote a book called "Colds and their Benefits" a half century ago. I think this book describes his philosophy well. Simplifying what written in the book in one sentence, "you catch colds because you need. And going through a pass-through process, you will be refreshed."  Sound good, doesn't it?  And many people understood and still understand Seitai as a natural healing art. I do not say this recognition of Seitai is wrong. But if you read the book carefully, you will find that this is the book on education. Over 30 years ago, I was working at an american college program in Kyoto as mentioned in part I of this essay.  Many students were experiencing what I called "culture shock fever" when they came into a new culture and this is what exactly happened to me in my intercultural experience. This phenomena can be explained easily as an adjustment phase one goes through. It interests me a lot  and eventually led me to the world of  Seitai.
 Now I have got to the starting point.
 (to be continued)

2012年11月2日金曜日

京都

二年四ヶ月ぶりに京都の稽古会に参加してきた
白山稽古会と日程が隣り合わせになったので、
公開講話初参加の人を含む白山の人たち三名と一緒に松任から京都に車で移動
駐車場から京都研修会館の建物に歩く途中でもう懐かしさ一杯

二年も間が空くと、顔ぶれも随分変わっているさ
顔見知りの人でも、若者だったと思っていた人が、オジサンぽくなっていたり…
その一方で、微塵も変わらない人もいる
この個体差というのは、どこに起因するのだろう
でも会全体が「大人」の雰囲気になってましたね

三日間、集注が保てるか若干の不安はあったものの、
(なんせ、夜中の特訓から宿に帰ると深夜2時というスケジュールなので)
無事最後までたどり着けました
三日間連続の稽古はよいですね

2012年10月27日土曜日

why body education? II

[Noguchi Haruchika]

I always find difficulties explaining what kind of work I do.  Before I go into this topic, I first try to describe Seitai Kyokai, an organization with which I have been working and Noguchi Haruchika, the founder of the organization. I tried to find what kind of information is available in English. Keywords I put to the Google window are, Seitai, Haruchika Noguchi, Katsugen Undo, etc. Then I found out that you won't get much through these keywords. Information from wikipedia is so limited and also outdated. You might get better results if you search in European languages, such as French, Spanish or German. It is because Noguchi's philosophy and practice have spread in Europe through his students. Seitai Kyokai has a web page < www.seitai.org> . But Google's translation system outputs unreadable English.  Best explanation of Noguchi's works I could have found so far is short descriptions of  Noguchi's translated books in English published by Zenseisha. They should give you some ideas of Noguchi's philosophy. http://www.zensei.co.jp/books/store?genre_id=7 
(to be continued)

なぜ身体教育なのか? 5

【カタ】

 石川で稽古会をはじめるきっかけになった白山市のワンネススクールの生徒たち対象の稽古会を先日頼まれてやってきた。生徒たちはどんどん入れ替わっていくから、年に一回やったとしても、ほとんどの子どもたちにとっては稽古に触れるのははじめてということになる。

 今回は、「人にふれる」というテーマではじめてみることにした。はじめてみることにしたといっても、即興なのだけれど。普通に触れても、「私に触れられた」という感覚は生まれない。掌に触れられれば掌に、肩に触れられれば肩という部位に触れられた感覚が生まれるにすぎない。動きの源を、手首、肘、肩と根本の方に移していくと、体の部位に触れられるという感覚からだんだん遠ざかってくる。つまり、僕らの言葉で言えば、だんだんカタが形成されてくる。

 おもしろいよね。カタとは非自己に向かうものであるのにもかかわらず、そのカタで触れられたとき、はじめて相手は、「私に触れられた」と感じる。じゃあ「私」という感覚っていったいなんだ?ということになる。つまり、わたしたちが「私」と感じるものは、通俗的な意味での「個」とは別のものを指し示しているのではないだろうか、という地点にたどり着いてしまう。ここから文化としての身体に目が向けられることになる。

2012年10月26日金曜日

10月の読書

今月はなにげにバタバタしていて
キーボードを叩いてる時間が長かった)
図書館に行く回数も少なかった
でも読んだ本はどれも粒揃い

中国ネット最前線* 渡辺浩平編 蒼蒼社 2011
さわり* 佐宮圭 小学館 2011
アフター・ザ・レッド* 朝山実 角川書店 2012
氷山の南* 池澤夏樹 文藝春秋 2012
通天閣* 西加奈子 筑摩書房 2006
悪党* 石川知裕 朝日新聞出版 2011
 昔ながらの徒弟制度が政治家のところではまだ生きていることがとても新鮮だった
人はなぜ<上京>するのか* 難波巧士 日経プレミアシリーズ 2012
「つながり」を突き止めろ* 安田雪 光文社新書 2010
絶叫委員会* 穂村弘 筑摩書房 2010
 穂村弘の文章はせつない。明治の歌人たちが壁に釘をたてるように書いたとすれば、現代の歌人は曇ったガラス窓に指で書く幼児のようだ。どちらが日本の伝統に則っているかといえば、無論後者だ。