2015年4月10日金曜日
永続敗戦論
■読みたい、或いは読まなきゃと思っていても頁を開く勇気を持てない本がある。「永続敗戦論」もそんな一冊で、いずれ読まなくてはと思いながら、なかなか手にすることのできない本だった。書評やいろんな人の紹介、意見を見ながら、きっと自分が読みたい内容がここにある、ということは重々承知していても、「読んだあと、顔面に強烈なパンチを見舞われ、あっけなくマットに仰向けに倒れこむ心境になった。」(水野和夫)にはなりたくなかった、ということなのだ。■311のあと、この国の当事者能力のなさを目の当たりにして、「我々は信託被統治国になるのが相応しい」と心底思った。その後、様々な書籍等で明らかになったのは、「日本はそもそも独立国ではなかった」という身も蓋もない現実で、生きる気力をなくしてしまうほどであった。そんな状態のなか、憲法成立の過程を辿ったり、安保関連の本を読み進め、ようやく「永続敗戦論」に辿り着いた。311から4年、この本が出版されて丸2年になっていた。私が買ったものも奥付けには18刷となっているから、5万10万の人たちがこの本を読んでいることになる。■はい、読みたい内容はすべて書かれていました。結局、昭和天皇と大岡昇平のやりとりに尽きる。
2015年3月30日月曜日
同型転質
■昨夏、ロイ先生が亡くなって以来、本部道場での愉気法講座、活元指導の会は休会のままである。晴哉先生以来続いてきた整体協会の伝統が失われてしまうことは、ちょっと淋しい。愉気法にせよ活元運動にせよ、整体の基本というべきもので、少なくともそれらの様式はなんらかのかたちで残すべきだろう。■今は「カタと同調」という名称に統一してしまったが、数年前に大井町ではじめた「合掌行気以前」「活元運動以前」という稽古は、それぞれ、合掌という形に至るまでの経路、活元運動にける準備運動とは何かを動法的内観的に、つまり稽古場的に検討を加えたものである。■稽古用語で「同型転質」というものがある。つまり、形は変えず、その質を変えるの意。これに対して「転型同質」は、形は変わっても質は変わらない。これって、理念の話ではなくて技法の話で、例えば、邪気吐きひとつとっても、一つの様式ながら、百通りの吐き方が可能であるということを言っている。■稽古場ができた四半世紀前だと、「転型転質」の様相で「稽古」というジャンルを打ち立てようとしていた気がするが、すでに稽古という考え方は十分に浸透してきたから、やや先祖返り的な、従来の様式に則った、じっくり合掌行気するような稽古会をやろうと思っている。
3月の読書
古本屋にダンボール一杯分の本を送りつけ、今度は、振り込まれたそのお金を握りしめて、また古本屋にでかける。ところが、そこで買い求めた本のうち、一冊は文庫で読んだもののハードカバー版で、もう一冊は失敗作としか思えない小説。で、結局、本屋に行ってまた新しい本を買い込むという悪循環。
ベトナム語ーはじめの一歩まえ* 富田健次 DHC 2001
「生きづらい日本人」を捨てる*下川裕治 光文社新書 2012
ベトナム語ーはじめの一歩まえ* 富田健次 DHC 2001
「生きづらい日本人」を捨てる*下川裕治 光文社新書 2012
動物感覚* テンプル・グランディン 日本放送協会 2006
俺に似たひと* 平川克美 医学書院 2012
俺に似たひと* 平川克美 医学書院 2012
そしてメディアは日本を戦争に導いた* 半藤一利・保坂正康 東洋経済新報社 2013
ぼくはスピーチをするために来たのではありません* ガルシア・マルケス 新潮社 2014
十二の遍歴の物語* ガルシア・マルケス 新潮社 1994
ベトナム町並み観光ガイド* 友田博通編 岩波アクティブ新書 2003
わりなき恋 岸惠子 幻冬舎 2013
捨てる女 内澤旬子 本の雑誌社 2013
身体は幻 渡辺保 幻戯書房 2014
捨てる女 内澤旬子 本の雑誌社 2013
身体は幻 渡辺保 幻戯書房 2014
2015年3月25日水曜日
2015年3月20日金曜日
2015年3月13日金曜日
ぼくが紅茶を頼まない理由
紅茶はすきなのだが、外で紅茶を頼むことはほとんどない
どうしてなのかと考えてみたら、ティーカップ一杯では物足りない
という一点にたどりつく
家ではコーヒーも勿論飲むけれどもっぱら紅茶
ティーポットを温め、カップを温め、リーフを入れて
そこに、沸騰したお湯を八分目注ぐ
一人で飲む場合だと、このティーポットの紅茶をカップになみなみ注いでも
ポットにはまだ、二割くらい残っている
一杯目の紅茶をいただきながら、ポットに7分目くらいまでお湯を足してしまう
一杯目を飲み終えた頃には、二杯目が準備されていることになる
二杯目を注いでも、まだポットにはまだいくらかの紅茶は残っているから、
それが三杯目になる
あるいは、二回目に注ぐお湯の量を少なめにして、濃い目な紅茶にしておいて、
ミルクティーにすることもある
つまり、一回紅茶を淹れる度に、最低二杯、場合によっては三倍の紅茶を飲む
というのが、僕にとってのスタンダードなのだ
紅茶をポットで頼めるお店はあるけれど、妙に茶葉を節約していて、
お湯を足したところで、まあ二杯がせいぜいだし、いい値段とってくれるではないか
紅茶は家で飲むに限る
どうしてなのかと考えてみたら、ティーカップ一杯では物足りない
という一点にたどりつく
家ではコーヒーも勿論飲むけれどもっぱら紅茶
ティーポットを温め、カップを温め、リーフを入れて
そこに、沸騰したお湯を八分目注ぐ
一人で飲む場合だと、このティーポットの紅茶をカップになみなみ注いでも
ポットにはまだ、二割くらい残っている
一杯目の紅茶をいただきながら、ポットに7分目くらいまでお湯を足してしまう
一杯目を飲み終えた頃には、二杯目が準備されていることになる
二杯目を注いでも、まだポットにはまだいくらかの紅茶は残っているから、
それが三杯目になる
あるいは、二回目に注ぐお湯の量を少なめにして、濃い目な紅茶にしておいて、
ミルクティーにすることもある
つまり、一回紅茶を淹れる度に、最低二杯、場合によっては三倍の紅茶を飲む
というのが、僕にとってのスタンダードなのだ
紅茶をポットで頼めるお店はあるけれど、妙に茶葉を節約していて、
お湯を足したところで、まあ二杯がせいぜいだし、いい値段とってくれるではないか
紅茶は家で飲むに限る
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