2016年7月12日火曜日

庭木

庭木についての知識は皆無
いったいどの季節に剪定すればよいのか
紫陽花は花が終わったらすぐハサミを入れるとあるので、
早速、剪定ばさみを買ってきて、刈り込んだ

図書館から本を借りてきて勉強中なのだが、
春先までにやっておくべきことがたくさんあったらしい
あとのまつりだが、寒い間は庭木のことなど気にしなかった
いまはムクゲが満開だ

庭木に水をやろうと、
横浜から持ってきたホースを蛇口につけたら
長さが全然足りない
これも、買い足さねばならない

季節が巡っていくたびに、モノが増えていく

2016年7月5日火曜日

等持院撮影所年譜

1921年から11年間、この家が立っているところに撮影所があったらしい。マキノ・プロジェクトによると、「当初、等持院山門をくぐると参道の西側部分にステージ1棟、倉庫、俳優部屋、事務所があった。東亜キネマ京都時代には、ダーク・ステージ4棟、オープン・ステージ2棟へと成長した」とある。1932年、撮影所は閉鎖され、跡地は競売に付され、宅地になった。

以下の年譜は、「等持院撮影所」をキーワードにインターネット検索した結果をもとに再構成したもので、自分で文献に当たるといった作業はまったく行っていないことを予めお断りしておく。矛盾する記述は無視し、文体だけを揃えた。文化庁が運営する日本映画情報システムで「等持院」を検索すると322件の映画がリストアップされた。どうやら、ここは日本映画黎明期の重要な舞台の一つだったらしい。

1921年(大正10年)6月、マキノ省三は、京都市北区・衣笠山の麓の等持院境内に「牧野教育映画製作所」を設立、同年9月、同所に「等持院撮影所」を建設・開業した。牧野教育映画製作所は、やがて、それがマキノキネマ株式会社へと発展、先駆的な時代劇映画を送りだすとともに、後の日本映画を支える人材を育成した。

1924年(大正13年)6月、東亜キネマがマキノを吸収合併し「東亜キネマ等持院撮影所」と改称される。

1925年6月(大正14年)、マキノが東亜キネマから再び独立し「マキノ・プロダクション」を設立。花園天授ヶ丘「御室撮影所」へと移転する。等持院撮影所の旧マキノ派は新生マキノ・プロに結集した。「東亜キネマ等持院撮影所」は「東亜キネマ京都撮影所」と改称される。所長には同社の親会社・八千代生命の宣伝部長である小笹正人が就任した。

1927年(昭和2年)東亜キネマは「甲陽撮影所」を閉鎖、等持院の「東亜キネマ京都撮影所」に製作事業の拠点を一元化した。

1929年(昭和4年)3月、小笹が同社を退社、出版事業等にも手を出して没落した親会社・八千代生命が映画製作事業から撤退、牧野の長女の夫・高村正次が京都撮影所長に就任し、事業の立て直しを図った。

1930年(昭和5年)に阪急電鉄の小林一三が設立した「宝塚映画」に働きかけ、資金面での提携を図った。

1931年(昭和6年)9月、同社の製作代行をする会社として「東活映画社」が設立され、高村は退陣、安倍辰五郎が「東活映画等持院撮影所」の所長に就任した。高村は小説家・映画プロデューサーの直木三十五の協力を得て「大衆文芸映画社」、「正映マキノ」を設立してゆく。

1932年(昭和7年)10月、わずか1年で東活映画社が解散し、東亜キネマは製作事業をついに断念、「等持院撮影所」を閉鎖する。同年11月、「正映マキノ」の高村が再度登場し東亜キネマを買収、「御室撮影所」に宝塚キネマを設立、東亜キネマはその9年間の歴史に幕を閉じた。「等持院撮影所」は競売に付され、1933年(昭和8年)5月には住宅地となった。

------

参考サイト
*立命館大学アート・リサーチセンターマキノ・プロジェクト
*ウィキペディア

2016年7月4日月曜日

風景

娘のお腹に手を当てて愉気している
生まれて二日目の赤ん坊は、母親のお腹にしがみつくような格好で眠っている

妻を送ったときの風景が蘇る
真ん中にいたのが妻で、娘は向こう側に座って妻に手を当てていた

生と死
真逆の出来事なのに
そこにある空気感は似ている
静謐な時間が流れていく

小さないとこたちが訪ねて来て
眠っている赤児の寝顔を神妙に見入っている
新しい仲間を迎えている
いい風景だな

2016年7月2日土曜日

7月

月末三日間の稽古会に出て、その後、等持院稽古場で「せうそこ」第一回。さらにキダさんのところで会食という過密日程をこなすと、さすがにへろへろで、その日は爆睡。目覚めたらもう7月だ。

7月に入れば、8月の稽古日程も出さねばならぬ。困ったことに決まり切らない部分がまだあって、予定表を出しそびれている。特別行事も目白押しで、特に中旬以降、天河神社奉納能、白山登山、上越稽古場連座、月末の研修と続く。

おまけに、東京にいる娘のところに子どもが生まれたので〜とうとうジージと呼ばれることになった〜様子ものぞきに行きたい。引っ越して一年も経たぬというのに、優雅な京都隠遁生活に暗雲が漂いはじめている。

8月の稽古日程は数日中にアップします。

2016年6月29日水曜日

6月の読書

世にも奇妙なマラソン大会* 高野秀行 集英社文庫 2014
医療にたかるな 村上智彦 新潮社新書 2013
尼僧とキューピッドの弓* 多和田葉子 講談社 2010
セックス放浪記* 中村うさぎ 新潮文庫 2007
日本会議の研究 菅野完 扶桑社新書 2016
隣のアボリジニ* 上橋菜穂子 ちくま文庫 2010
他界* 金子兜太 講談社 2014
タネが危ない* 野口勲 日本経済新聞出版社 2011 
英国一家、インドで危機一髪* マイケル・ブース 角川書店
   アルコール依存症気味作家がインドに行ってヨガと瞑想に救われるというお話なのだが、多くのページが割かれているケララの描写に、もう一度ケララに行きたくなってしまった。skyscannerで関空〜コチン(今はコチと呼ぶらしい)を調べてみると、たった15時間で(かつてーいつとは言いませんがー少なくとも三日がかりだったぞ)、しかもエアアジアを使えば10万円を切るくらいの値段で行けることが判明。旅心がくすぐられてしまう。原題は”Eat, Pray, Eat”

2016年6月26日日曜日

あれから

一年前の今頃、3年ぶりに京都にやってきた
このブログで「前に進む」シリーズを書きながら、
これから先どうしようかな〜、と思案していた時期にあたる
稽古の合間の雑談で、「関西に戻ってこようかな」などと話していたが、
まさか、三ヶ月後、京都に引っ越してくるとは、その時はまだ空想だしていなかった
ちゃんと前に進んだ、ということでしょうね

はたらきかけない
稽古場をはじめるにあたり、心に定めたことのひとつ
手ぐすね引いて待っているという心情が全くないわけではないし、
こうしてブログも書いている
でも、どこまでどこまで受動でいられるか、というのを自らの課題とした
すると不思議なことが次から次に起こりはじめ、
ゆっくりではあるが、稽古場として回りはじめてきた

なにかを追いかけるでもなく、はたまた追いかけられるでもなく、
庭木の手入れなどしながら、日々の時間を味わっている
だれかが、「アジールに成りつつありますね」と表現してくれたが、
そんな隠れ里的な稽古場であればよいと思っている
そう、隠れ家は賑わっちゃいけない

2016年6月21日火曜日

ひとまわり

清澄白河から富岡八幡宮をかすめて門前仲町まで歩く
都営地下鉄、京急線を乗り継ぎ鮫洲
京都に引っ越して以来、9ヶ月ぶりの大井町稽古場
松井さんには東京行きを伝えていたので大して驚かせることはできなかったが、
稽古に来ていた数名と再会を喜び合う
活気は以前より出てきているようで安堵する

大井町から東急大井町線で上野毛下車
アンクルサムズでツナアボガトチーズサンドイッチを食べ、
坂道を下って本部稽古場へ
ダン先生にご挨拶し、個別に来ていた顔馴染みとも再会
みなさんご健勝の様子でなにより
アリ先生には連座についてあれこれ話を聞くことができた
帰りがけ、ドアに額をおもいっきりぶつけるというアクシデントはあったが、
実りのある里帰り
二子玉川駅周辺をぷらっと歩き、田園都市線・半蔵門線で清澄白河
電車に運ばれて、東京をぐるーっとひとまわりしたことになる