新しい命の誕生を人はずっと祝福をもって迎えたのではないか
逝ってしまった命を人はずっと悼みつつ見送ってきたのではないか
こうして、ずっと人は命をつないできたのではないか
愉気について考えている
愉気を受ける経験、それが整体の核となっている
これは確信を持っていえる
では、愉気を受けているとき、あるいは愉気を行なっているとき、
僕らはどのような感覚経験をしているのだろう
なぜ、愉気には修練が必要になるのだろう
太古の昔から風は吹いていた・・・
晴哉先生は、風という言葉を用いて、なにかを伝えようとしている
そもそも僕は愉気を経験したことがあるのだろうか
妻を見送ったときの経験が愉気だったのだろうか
それとも、娘が出産したあとの風景なのか
世界を、他者を、肯定的に迎え入れられる能力
これこそが、整体において僕らが体力と呼んでいるものだ
そして、その能力を育てるものとして愉気がある
世界は生きるに足りる愉しい場所である、と
ここから、なぜカタなのか、という問題に踏み入っていくことになる
2019年6月16日日曜日
2019年6月14日金曜日
専業主婦論争
専業主婦なりたいとおっしゃる
えっ、でも主婦力、私の方が高いんですけど
ご飯用意するというので待っていたら
専業主婦って、高度成長期に出現した特異な現象なのね、と講義しても、聞く耳を持たない
えっ、でも主婦力、私の方が高いんですけど
ご飯用意するというので待っていたら
パンと野菜と豆とチーズがお皿の上に並んでいた
これらは素材ではないでしょうか?
と疑念を素直に申し上げると、これで私は十分だとおっしゃる
これらは素材ではないでしょうか?
と疑念を素直に申し上げると、これで私は十分だとおっしゃる
たしかに...
でも、僕がドレッシング作って野菜にかけたら、
美味しいね〜と言ってむしゃむしゃ食べていたのはどなた
洗濯、アイロン掛け、お掃除はほどよく分担
料理は私に一日の長ありー料理は買物からはじまるのです
繕い物はお任せします
でも、僕がドレッシング作って野菜にかけたら、
美味しいね〜と言ってむしゃむしゃ食べていたのはどなた
洗濯、アイロン掛け、お掃除はほどよく分担
料理は私に一日の長ありー料理は買物からはじまるのです
繕い物はお任せします
専業主婦って、高度成長期に出現した特異な現象なのね、と講義しても、聞く耳を持たない
でも、家事が主婦の専権事項であるという考えかたは到底受け入れられないし、
この愉しみを奪おうとする方とは一緒に暮らせない
この愉しみを奪おうとする方とは一緒に暮らせない
結局、一緒に居るだけでいいよ、という一点で妥協
ようやく歯車が噛み合って前に進みはじめたところです
2019年6月11日火曜日
2019年6月5日水曜日
文音
連句会に出席したら知恵熱が出たという話は書いた。
来週が2回目の参加になるのだけれど、ちょっと出るのが怖い。
一度出席しただけなのに審査なしにメンバーに加えてもらえたようで、初心者対象の「文音」をやるのでどうですかとお誘いのメールが先生から届いた。「文音」とは手紙で歌仙を巻くこと。それを今風にメールを介してやるらしい。前句にたいして、長句なり短句なり三句を先生に送り、その中から一句、必要であれば一直と呼ばれている添削を加えて句を確定させていくという手順。なぜこの句を選んだか、なぜここを直したのか、解説とともに先生からメールが返ってくるので、連句初心者には実に勉強になる。
さて一巡目は随分ゆったりしていたものの、二巡目に入ると急に速度があがって、あっという間に順番が回ってきた。さて、僕のところに届いたのが「ダリの絵のゆらりと溶くる針二本」という長句。この句に短句七七をつけなけらばならない。季節はなく雑の句でとある。針二本から「箸」を連想。「左手に椀右手には箸」という句がまず浮かぶ。ゆらゆら、溶けるに棹差すように、体言で止めてみる。二つ目は、「豆つまみあげ煮加減をみる」。これも箸からの連想。うーん、箸から逃れられない。悶々としているところに小杉さんの訃報が届いた。こうなると連句どころではなくなってしまう。でも、頭の片隅に宿題の影が残る。
流れに棹ささないで、もっと流してしまおう。こうしてできたのが、「笹舟に乗せ友を見送る」という短句。最初は友でなく「御霊」としたのだけれど、これではお盆の灯籠流しのようで季節感がでてしまう。最終的に前掲二句と併せ、「笹舟に乗る友に手を振り」として先生に送った。早速、先生からの返信があった。笹舟の句を一直し、次の長句が添えられていた。唸った。
笹舟に乗る友へ手を振り
そろそろと亀仏心の貌を出す
僕の中では、笹舟に乗っているのは小杉さんであり小杉さんの御霊なのだけれど、それを「仏心」で受けてくださっているのだ。連句おそるべし。
遺影の中の小杉さんはVサインしていた。最後までやるな〜。
来週が2回目の参加になるのだけれど、ちょっと出るのが怖い。
一度出席しただけなのに審査なしにメンバーに加えてもらえたようで、初心者対象の「文音」をやるのでどうですかとお誘いのメールが先生から届いた。「文音」とは手紙で歌仙を巻くこと。それを今風にメールを介してやるらしい。前句にたいして、長句なり短句なり三句を先生に送り、その中から一句、必要であれば一直と呼ばれている添削を加えて句を確定させていくという手順。なぜこの句を選んだか、なぜここを直したのか、解説とともに先生からメールが返ってくるので、連句初心者には実に勉強になる。
さて一巡目は随分ゆったりしていたものの、二巡目に入ると急に速度があがって、あっという間に順番が回ってきた。さて、僕のところに届いたのが「ダリの絵のゆらりと溶くる針二本」という長句。この句に短句七七をつけなけらばならない。季節はなく雑の句でとある。針二本から「箸」を連想。「左手に椀右手には箸」という句がまず浮かぶ。ゆらゆら、溶けるに棹差すように、体言で止めてみる。二つ目は、「豆つまみあげ煮加減をみる」。これも箸からの連想。うーん、箸から逃れられない。悶々としているところに小杉さんの訃報が届いた。こうなると連句どころではなくなってしまう。でも、頭の片隅に宿題の影が残る。
流れに棹ささないで、もっと流してしまおう。こうしてできたのが、「笹舟に乗せ友を見送る」という短句。最初は友でなく「御霊」としたのだけれど、これではお盆の灯籠流しのようで季節感がでてしまう。最終的に前掲二句と併せ、「笹舟に乗る友に手を振り」として先生に送った。早速、先生からの返信があった。笹舟の句を一直し、次の長句が添えられていた。唸った。
笹舟に乗る友へ手を振り
そろそろと亀仏心の貌を出す
僕の中では、笹舟に乗っているのは小杉さんであり小杉さんの御霊なのだけれど、それを「仏心」で受けてくださっているのだ。連句おそるべし。
遺影の中の小杉さんはVサインしていた。最後までやるな〜。
2019年6月2日日曜日
追悼
小杉さんが逝っちゃった
あの甲高い笑い声を聞くことはもうないのか
戦友がまた一人いなくなってしまった
稽古仲間、同僚というよりは戦友という言葉の方がぴったりなのだ
ん、オレたち何かと戦ってた?
2011年3月11日14時48分、ぼくは横浜市営地下鉄の桜木町にいた
電車を降りたら目眩がする
その目眩と思ったものは地震で、早足で改札を抜け地上に向かった
ビルが揺れていた
15時に桜木町駅で会う約束をしていた父とは無事合流できた
そこに大井町で稽古をしている松井くんからの電話が携帯にあった
とりあえず、お互いの無事を確認
松井くんと話していると、向こうから小杉さんがひょこひょこと歩いてきたのだ
松井くんとの電話はそのままに、父を小杉さんに紹介
午前の稽古が一段落したので自宅に戻るつもりだという
なんでこんな時に、こんなところで、こんな人に会っちゃうんだ
小杉さんというと、この時のシュールな状景が蘇ってくる
鎌倉稽古場からスピンアウトして横浜関内に稽古場を開設したのはいつだろう
調べてみると2003年
その時の工事記録はまだネット上に残っていた → 横浜稽古場ができるまで
足繁く建設現場に足を運んだものだ
すでに故人となってしまった直江さんとの二人体制での稽古場運営がはじまった
なんだかな〜
寂しいよ
あの甲高い笑い声を聞くことはもうないのか
戦友がまた一人いなくなってしまった
稽古仲間、同僚というよりは戦友という言葉の方がぴったりなのだ
ん、オレたち何かと戦ってた?
2011年3月11日14時48分、ぼくは横浜市営地下鉄の桜木町にいた
電車を降りたら目眩がする
その目眩と思ったものは地震で、早足で改札を抜け地上に向かった
ビルが揺れていた
15時に桜木町駅で会う約束をしていた父とは無事合流できた
そこに大井町で稽古をしている松井くんからの電話が携帯にあった
とりあえず、お互いの無事を確認
松井くんと話していると、向こうから小杉さんがひょこひょこと歩いてきたのだ
松井くんとの電話はそのままに、父を小杉さんに紹介
午前の稽古が一段落したので自宅に戻るつもりだという
なんでこんな時に、こんなところで、こんな人に会っちゃうんだ
小杉さんというと、この時のシュールな状景が蘇ってくる
鎌倉稽古場からスピンアウトして横浜関内に稽古場を開設したのはいつだろう
調べてみると2003年
その時の工事記録はまだネット上に残っていた → 横浜稽古場ができるまで
足繁く建設現場に足を運んだものだ
すでに故人となってしまった直江さんとの二人体制での稽古場運営がはじまった
なんだかな〜
寂しいよ
2019年5月31日金曜日
読書会メモー山本義隆の著作を通じて
山本義隆にたどり着いた経緯は散発的にこのブログでも書いてきたので省略
→ https://dohokids.blogspot.com/search/label/読書会
最初に読んだ、いや読もうとしたのが「磁力と重力の発見」
全3巻千ページに及ぶ大著
図書館で借りて読みはじめたが、結局ネット古書店で全巻購入
以下、「近代日本一五〇年」、「私の1960年代」と読み進めている
実のところ、「磁力と重力の発見」は第3巻三分の一のところで足踏みしている

『磁力と重力の発見』の序文を山本はこう書きはじめる
本書は近代自然科学、とりわけ近代物理学がいかにして近代ヨーロッパに生まれたのか、という問題意識から発したものである。
更に、物理学二千年の歴史を次のように総括する
物理学の歴史は、煎じ詰めると、古代ギリシャの原子論が充実した物質としての原子と空虚な空間を見出し、二千年後の一七世紀に空間を隔てて働く万有引力にゆきつき、その後、一九世紀に場が発見されて力は場に還元され、そして二〇世紀の量子の発見をへて今日の姿をとるにいたったとまとめあげられる。
本書は、ギリシャの原子論とニュートンの万有引力の間の二千年という歴史を、磁石・磁力に代表される「遠隔力」がどのように理解されてきたかによって辿ろうとしている。
歴史上最初に現れる磁力理論はギリシャのエンペドクレス(前5世紀)と言われていて、
「磁石と鉄の両方から生じる流出物と鉄からの流出物に対応する磁石の通孔とによって、鉄が磁石の方へ運ばれる」というものである
こうやって山本は丹念に当時の哲学者たちが磁力をどのように理解していこうとしていたかを辿っていく。1巻2巻の目次は次のようなものである。

科学と技術はまったく別物として存在していた
科学はラテン語で語られる事柄であった
技術は職人の間で継承されていくものであった
それが、ルネサンス、大航海時代に入ってくると、科学と技術に接点が生まれてくる
印刷術の発展とともに俗語による出版物が増えてくる
やがて「科学技術」というものが発生する
まだ途中までしか読み進めてないのだが、遠隔力としての磁力のは徐々に現代物理学に近づいてきた。ただ、力が及び方に関して、「近いもの同士は強く、遠ざかるに従って、その力は弱くなる」という説明に辿りついたところで、私の中で?が生まれてしまった。気の伝達は距離を問わないというのが整体の原則であるから、近いほど強く影響するという理論には素直に首肯できない(笑)。場の理論、素粒子論にたどりつけば、もっと整体に近づいてくるのかしら、と思いながら続きを読もうと思う。
*****
『磁力と重力の発見』の第2巻を読んでいる時だったか、「大学ってもう終わってるな〜」となぜか思った。よくよく考えてみれば、著者は大学闘争を経て、在野の研究者であることを貫いてきた人であるからして、当然そう思っているはずで、行間から、そのような思いが伝わってきたのかしらとも思う。
「ぼくはなぜラジオ少年となったか」という問いに対し、『磁力と重力の発見』が扱っている時間軸は長すぎるので、もう少し、時間軸を縮めることにした。そこで、『近代日本一五〇年』。明治維新以来、日本という国が、どのように欧米から「科学技術」を導入し、帝国主義化していき、戦争を戦い、福島の原発事故に至ったか。どう考えても、僕がラジオ少年化していったのは、この文脈のなかにすっぽりおさまりそうではないか。
科学技術なるものが形成されたのは、せいぜいが18世紀末以降のことで、それまでは、科学と技術は本質的に異なる営みであった。世界の理解と説明を目的とする科学は、大学アカデミズムの内部で論じられる哲学ないし思想としての自然観であ理、実践の学としての医学をのぞいて、何らかの実際的応用を意図していたわけではない。他方、製作や捜査を目的とする技術は、長年にわたる膨大な経験の蓄積をとおして形成されたもので、機械の制作にせよ金属精錬にせよ、力学理論や科学理論に裏づけられていたわけではない。(p26)
明治維新の日本人にとって、西洋文明とは科学技術であった。文明開化は科学技術、端的にいうと蒸気機関と有線通信技術と共にやってきた。そして、幸か不幸か、最新の科学技術を欧米諸国とさほど時間差を置かず、インフラゼロのところに導入することができたのである。ただ、民間資本の蓄積がなかったゆえ、政府主導ではじまる。科学技術振興の牽引役として工部省が創設される。
明治前期に上級学校に進んだのはほとんどが士族の子弟で、明治期の技術者はその大半が士族出身者で占められていた。しかし徳川の時代に「士農工商」の身分制ヒエラルキーの最上部にいた士族は、職人や商人の仕事を蔑んでいたのであり、士族に根強かったこのような階級的偏見を払拭するには、工部大学校、のちには帝国大学工科大学で教育されることになる技術を、舶来のものとして箔をつけ、お上のものとして権威づけ、こうして教育される技術者を、技術エリート・技術士官として在来の職人から差別化しなければならなかった。(p.52)
こうして大学は国策を実現するための人材育成機関として作られていく。産学軍の連合は日清日露戦争を経て強化され、第二次大戦においてピークを迎えることになる。
科学動員のかけ声のもとで研究者や技術者は優遇され、戦時下の理工系ブームがもたらされた。理工系の学者は、研究活動上も私生活においても、わが世の春を迎えルことになる。前述の宮本武之輔の一九四〇年の「技術国策論」には、「現に理科系統の大学卒業者に対する需要は供給の三倍以上、同じく専門学校卒業者に対する需要は五倍以上に達する状態」とある。(p.194)
そして戦後。
アジア・太平洋戦争の敗北によって、たしかに日本は、それまでの非民主的な政治思想や前近代的な国家思想の反省を迫られた。それゆえ、社会思想やイデオロギーが問題となる文系の研究者においては、戦時中なにがしか戦争に協力したならば、戦後の世界では、発言を躊躇われた。しかし、科学技術においては、大戦中、戦争遂行に必須であるとして科学動員が語られ、研究者にはさまざまな優遇措置が与えられ、科学者も率先してそれに応えてきたのであるが、それにもかかわらず、敗戦の直後、科学者の内部からはそのことへの反省は語られなかった。(p.204)
逆に、「科学が足りなかったから戦争に負けた」のであり、戦後は「科学振興をさらに進めなくてはならい」という意見に集約されていく。そして、それが国の政策となっていく。つまり、敗戦を経た後も、科学技術振興立国という明治はじめに設定されたゴールはそのまま生き続けた。
僕が十代だった1960年代、成績優秀な生徒は工学部に行けと言われて育った。高度成長がはじまった時代。そいう風潮の中に僕自身がいて、高専の電気工学科に入学したのだった。それが1968年。半世紀前のことである。
→ https://dohokids.blogspot.com/search/label/読書会
最初に読んだ、いや読もうとしたのが「磁力と重力の発見」
全3巻千ページに及ぶ大著
図書館で借りて読みはじめたが、結局ネット古書店で全巻購入
以下、「近代日本一五〇年」、「私の1960年代」と読み進めている
実のところ、「磁力と重力の発見」は第3巻三分の一のところで足踏みしている

『磁力と重力の発見』の序文を山本はこう書きはじめる
本書は近代自然科学、とりわけ近代物理学がいかにして近代ヨーロッパに生まれたのか、という問題意識から発したものである。
更に、物理学二千年の歴史を次のように総括する
物理学の歴史は、煎じ詰めると、古代ギリシャの原子論が充実した物質としての原子と空虚な空間を見出し、二千年後の一七世紀に空間を隔てて働く万有引力にゆきつき、その後、一九世紀に場が発見されて力は場に還元され、そして二〇世紀の量子の発見をへて今日の姿をとるにいたったとまとめあげられる。
本書は、ギリシャの原子論とニュートンの万有引力の間の二千年という歴史を、磁石・磁力に代表される「遠隔力」がどのように理解されてきたかによって辿ろうとしている。
歴史上最初に現れる磁力理論はギリシャのエンペドクレス(前5世紀)と言われていて、
「磁石と鉄の両方から生じる流出物と鉄からの流出物に対応する磁石の通孔とによって、鉄が磁石の方へ運ばれる」というものである
こうやって山本は丹念に当時の哲学者たちが磁力をどのように理解していこうとしていたかを辿っていく。1巻2巻の目次は次のようなものである。

科学と技術はまったく別物として存在していた
科学はラテン語で語られる事柄であった
技術は職人の間で継承されていくものであった
それが、ルネサンス、大航海時代に入ってくると、科学と技術に接点が生まれてくる
印刷術の発展とともに俗語による出版物が増えてくる
やがて「科学技術」というものが発生する
まだ途中までしか読み進めてないのだが、遠隔力としての磁力のは徐々に現代物理学に近づいてきた。ただ、力が及び方に関して、「近いもの同士は強く、遠ざかるに従って、その力は弱くなる」という説明に辿りついたところで、私の中で?が生まれてしまった。気の伝達は距離を問わないというのが整体の原則であるから、近いほど強く影響するという理論には素直に首肯できない(笑)。場の理論、素粒子論にたどりつけば、もっと整体に近づいてくるのかしら、と思いながら続きを読もうと思う。
*****
『磁力と重力の発見』の第2巻を読んでいる時だったか、「大学ってもう終わってるな〜」となぜか思った。よくよく考えてみれば、著者は大学闘争を経て、在野の研究者であることを貫いてきた人であるからして、当然そう思っているはずで、行間から、そのような思いが伝わってきたのかしらとも思う。
「ぼくはなぜラジオ少年となったか」という問いに対し、『磁力と重力の発見』が扱っている時間軸は長すぎるので、もう少し、時間軸を縮めることにした。そこで、『近代日本一五〇年』。明治維新以来、日本という国が、どのように欧米から「科学技術」を導入し、帝国主義化していき、戦争を戦い、福島の原発事故に至ったか。どう考えても、僕がラジオ少年化していったのは、この文脈のなかにすっぽりおさまりそうではないか。
科学技術なるものが形成されたのは、せいぜいが18世紀末以降のことで、それまでは、科学と技術は本質的に異なる営みであった。世界の理解と説明を目的とする科学は、大学アカデミズムの内部で論じられる哲学ないし思想としての自然観であ理、実践の学としての医学をのぞいて、何らかの実際的応用を意図していたわけではない。他方、製作や捜査を目的とする技術は、長年にわたる膨大な経験の蓄積をとおして形成されたもので、機械の制作にせよ金属精錬にせよ、力学理論や科学理論に裏づけられていたわけではない。(p26)
明治維新の日本人にとって、西洋文明とは科学技術であった。文明開化は科学技術、端的にいうと蒸気機関と有線通信技術と共にやってきた。そして、幸か不幸か、最新の科学技術を欧米諸国とさほど時間差を置かず、インフラゼロのところに導入することができたのである。ただ、民間資本の蓄積がなかったゆえ、政府主導ではじまる。科学技術振興の牽引役として工部省が創設される。
明治前期に上級学校に進んだのはほとんどが士族の子弟で、明治期の技術者はその大半が士族出身者で占められていた。しかし徳川の時代に「士農工商」の身分制ヒエラルキーの最上部にいた士族は、職人や商人の仕事を蔑んでいたのであり、士族に根強かったこのような階級的偏見を払拭するには、工部大学校、のちには帝国大学工科大学で教育されることになる技術を、舶来のものとして箔をつけ、お上のものとして権威づけ、こうして教育される技術者を、技術エリート・技術士官として在来の職人から差別化しなければならなかった。(p.52)
こうして大学は国策を実現するための人材育成機関として作られていく。産学軍の連合は日清日露戦争を経て強化され、第二次大戦においてピークを迎えることになる。
科学動員のかけ声のもとで研究者や技術者は優遇され、戦時下の理工系ブームがもたらされた。理工系の学者は、研究活動上も私生活においても、わが世の春を迎えルことになる。前述の宮本武之輔の一九四〇年の「技術国策論」には、「現に理科系統の大学卒業者に対する需要は供給の三倍以上、同じく専門学校卒業者に対する需要は五倍以上に達する状態」とある。(p.194)
そして戦後。
アジア・太平洋戦争の敗北によって、たしかに日本は、それまでの非民主的な政治思想や前近代的な国家思想の反省を迫られた。それゆえ、社会思想やイデオロギーが問題となる文系の研究者においては、戦時中なにがしか戦争に協力したならば、戦後の世界では、発言を躊躇われた。しかし、科学技術においては、大戦中、戦争遂行に必須であるとして科学動員が語られ、研究者にはさまざまな優遇措置が与えられ、科学者も率先してそれに応えてきたのであるが、それにもかかわらず、敗戦の直後、科学者の内部からはそのことへの反省は語られなかった。(p.204)
逆に、「科学が足りなかったから戦争に負けた」のであり、戦後は「科学振興をさらに進めなくてはならい」という意見に集約されていく。そして、それが国の政策となっていく。つまり、敗戦を経た後も、科学技術振興立国という明治はじめに設定されたゴールはそのまま生き続けた。
僕が十代だった1960年代、成績優秀な生徒は工学部に行けと言われて育った。高度成長がはじまった時代。そいう風潮の中に僕自身がいて、高専の電気工学科に入学したのだった。それが1968年。半世紀前のことである。
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