ソマティックについて書こうとしているのか、片桐ユズル論を書こうとしているのか判然としなくなってきた(笑)
文化によって身体は変わるのか、ほんとうに「日本人の身体」というのはあるのか、というのは大問題だ。整体ではー少なくとも身体教育研究所においてー「ある」としている。一足飛びに普遍的な(科学的医学的生理学的と言い換えてもいいのかもしれない)身体に行く前に、身体を文化的な存在として捉えようとしている。もっというと、科学的身体観というのも今の世界に広がっているひとつの方言(dialect)に過ぎないという立場だ。「英語は世界共通語なんかじゃありませんよ、まず母語をちゃんと学びましょう」、というのが僕らのアプローチと言ってよい。
プロではないけれど、翻訳の仕事は随分してきた。でも、やってみればわかるけれど、母語が貧しいとろくな翻訳は生まれてこないし、自分の無教養さばかりがどんどん露わになってくる。ぼく自身は、翻訳は可能だし、母語以外の言語を学ぶことによって言葉世界が豊穣になるという立ち位置だし、これはもう変わることはない。でも、無教養であるって、なさけないんだ。無教養とは知識の欠如ではない。古典的感覚経験の欠落なのだ。
薄い膜の正体がすこし見えてきた。
2019年6月26日水曜日
ソマティックス 2
ソマティックへの違和感について考えている。
この膜一枚隔てたもどかしさは何に由来するのだろう。
ひとつは、誕生と死の部分の欠落。欠落というと言いすぎで、○○的な出産術とか、○○式看取り法といったものはきっとあるのだろう。でもどこか、細分化されてて、技法化されていて、トータルな生き方にたどりついてない印象。随分、偏見に満ちた見解だなとは思う。この偏見は、ぼくの中にある、自己啓発的なものへの忌避感と地続きなものだ、きっと。
明治以来、欧米的身体観ー西洋医学的身体が輸入されてきて、その身体観を内面化させてぼくらは現代を生きている。意地の悪い見方をすれば、日本人の体に西洋的身体を接木しようとして、そこの齟齬から発生した諸問題をソマティックという西洋的裏技法によって解決を図ろうとしている、ようにも見える。じゃあ、問題が解決されたとして、次、いったいどのような身体が立ち現れてくるのか。我ながら意地悪だ(笑)。
片桐ユズルと出会ったのは1970年代中期で、輸入されたカウンターカルチャーという文脈の中で出会っている。ユズルさんは英語の先生で、かつ輸入業者。ぼくは別称ヒッピー大学を卒業したばかり。ユズルさんは、カバンの中からいろんな品物を取り出し、次々にテーブルの上に並べ、これを試してごらん、これも面白いよと誘惑してくる。国産の「整体」もなぜかワンオブゼムで一緒に並んでいた。いろいろ体験させてもらい、十年もたった頃、ぼくは整体の道に進むことを決めたのだった。
もう少し続けます。
この膜一枚隔てたもどかしさは何に由来するのだろう。
ひとつは、誕生と死の部分の欠落。欠落というと言いすぎで、○○的な出産術とか、○○式看取り法といったものはきっとあるのだろう。でもどこか、細分化されてて、技法化されていて、トータルな生き方にたどりついてない印象。随分、偏見に満ちた見解だなとは思う。この偏見は、ぼくの中にある、自己啓発的なものへの忌避感と地続きなものだ、きっと。
明治以来、欧米的身体観ー西洋医学的身体が輸入されてきて、その身体観を内面化させてぼくらは現代を生きている。意地の悪い見方をすれば、日本人の体に西洋的身体を接木しようとして、そこの齟齬から発生した諸問題をソマティックという西洋的裏技法によって解決を図ろうとしている、ようにも見える。じゃあ、問題が解決されたとして、次、いったいどのような身体が立ち現れてくるのか。我ながら意地悪だ(笑)。
片桐ユズルと出会ったのは1970年代中期で、輸入されたカウンターカルチャーという文脈の中で出会っている。ユズルさんは英語の先生で、かつ輸入業者。ぼくは別称ヒッピー大学を卒業したばかり。ユズルさんは、カバンの中からいろんな品物を取り出し、次々にテーブルの上に並べ、これを試してごらん、これも面白いよと誘惑してくる。国産の「整体」もなぜかワンオブゼムで一緒に並んでいた。いろいろ体験させてもらい、十年もたった頃、ぼくは整体の道に進むことを決めたのだった。
もう少し続けます。
2019年6月25日火曜日
ソマティックス 1
ボディワークの意味がわからない。
ソマティックになると、もっとわからない。
片桐ユズルとの縁で、ソマティック心理学協会というグループが主催する会で稽古をやってきた。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で謎のままである。
片桐ユズルが僕を呼んだのは、「整体は日本を代表するソマティック」なのに、「引っ込み思案で、宣伝もしないし、なかなか外に出てこない人たち」だから、これを機に、カミングアウトした方がよい、というユズルさんなりの好意の表現でもある。会そのものは楽しかったし、真面目な人たちの集まりだな、ということはよくわかった。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で依然謎のままである。近くに居るらしいのだけれど、薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たちという印象なのだ。
片桐ユズルに話を聞く機会は最近多い。
得体の知れないソマティック関係者のなかで、アイコン的な存在になっている風もある。本人も、モテ期に入っていると自覚しているらしい。オルダス・ハクスリーが著書の中で、「アレキサンダーテクニック(AT)は素晴らしいといっていたから、ぼくはATの勉強をはじめた」という説明は非常にわかりやすい。このあたりが、日本におけるボディワークやソマティックの流れを理解する上で鍵になりそうだ。ヒューマンポテンシャルムーブメントがあって、エサレンがあって、oshoがいて...みたいな流れなのか。
薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たち...。
なんなんだろうね、この違和感は。
ソマティックになると、もっとわからない。
片桐ユズルとの縁で、ソマティック心理学協会というグループが主催する会で稽古をやってきた。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で謎のままである。
片桐ユズルが僕を呼んだのは、「整体は日本を代表するソマティック」なのに、「引っ込み思案で、宣伝もしないし、なかなか外に出てこない人たち」だから、これを機に、カミングアウトした方がよい、というユズルさんなりの好意の表現でもある。会そのものは楽しかったし、真面目な人たちの集まりだな、ということはよくわかった。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で依然謎のままである。近くに居るらしいのだけれど、薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たちという印象なのだ。
片桐ユズルに話を聞く機会は最近多い。
得体の知れないソマティック関係者のなかで、アイコン的な存在になっている風もある。本人も、モテ期に入っていると自覚しているらしい。オルダス・ハクスリーが著書の中で、「アレキサンダーテクニック(AT)は素晴らしいといっていたから、ぼくはATの勉強をはじめた」という説明は非常にわかりやすい。このあたりが、日本におけるボディワークやソマティックの流れを理解する上で鍵になりそうだ。ヒューマンポテンシャルムーブメントがあって、エサレンがあって、oshoがいて...みたいな流れなのか。
薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たち...。
なんなんだろうね、この違和感は。
2019年6月19日水曜日
とりのこようし
ソマティック関西フォーラムめがけて準備中
きっとアウェイだし、どういう流れで話するか考えておかねばと、
紙を継ぎ足しながらメモを書きつらねていると、
「とりのこようし」みたいね〜、と家人が声をかけてくる
なに、とりのこようし? いったい何だそれはと訊きかえすと、
なんだ、そんなことも知らないのかという風情で、模造紙のことよ、との返事
え、そんな呼び方聞いたこともない
小学校のグループ学習の時はね、云々という話からすると、世代の違いかもしれない
神戸、愛媛では、という話を聞くと、地域差のようにも思える
どうやら、「鳥の子用紙」、愛媛香川ローカルで流通している言葉らしい
机をかく(=運ぶ)、という表現もあるそうな
きっとアウェイだし、どういう流れで話するか考えておかねばと、
紙を継ぎ足しながらメモを書きつらねていると、
「とりのこようし」みたいね〜、と家人が声をかけてくる
なに、とりのこようし? いったい何だそれはと訊きかえすと、
なんだ、そんなことも知らないのかという風情で、模造紙のことよ、との返事
え、そんな呼び方聞いたこともない
小学校のグループ学習の時はね、云々という話からすると、世代の違いかもしれない
神戸、愛媛では、という話を聞くと、地域差のようにも思える
どうやら、「鳥の子用紙」、愛媛香川ローカルで流通している言葉らしい
机をかく(=運ぶ)、という表現もあるそうな
2019年6月18日火曜日
愉気
新しい命の誕生を人はずっと祝福をもって迎えたのではないか
逝ってしまった命を人はずっと悼みつつ見送ってきたのではないか
こうして、ずっと人は命をつないできたのではないか
愉気について考えている
愉気を受ける経験、それが整体の核となっている
これは確信を持っていえる
では、愉気を受けているとき、あるいは愉気を行なっているとき、
僕らはどのような感覚経験をしているのだろう
なぜ、愉気には修練が必要になるのだろう
太古の昔から風は吹いていた・・・
晴哉先生は、風という言葉を用いて、なにかを伝えようとしている
そもそも僕は愉気を経験したことがあるのだろうか
妻を見送ったときの経験が愉気だったのだろうか
それとも、娘が出産したあとの風景なのか
世界を、他者を、肯定的に迎え入れられる能力
これこそが、整体において僕らが体力と呼んでいるものだ
そして、その能力を育てるものとして愉気がある
世界は生きるに足りる愉しい場所である、と
ここから、なぜカタなのか、という問題に踏み入っていくことになる
逝ってしまった命を人はずっと悼みつつ見送ってきたのではないか
こうして、ずっと人は命をつないできたのではないか
愉気について考えている
愉気を受ける経験、それが整体の核となっている
これは確信を持っていえる
では、愉気を受けているとき、あるいは愉気を行なっているとき、
僕らはどのような感覚経験をしているのだろう
なぜ、愉気には修練が必要になるのだろう
太古の昔から風は吹いていた・・・
晴哉先生は、風という言葉を用いて、なにかを伝えようとしている
そもそも僕は愉気を経験したことがあるのだろうか
妻を見送ったときの経験が愉気だったのだろうか
それとも、娘が出産したあとの風景なのか
世界を、他者を、肯定的に迎え入れられる能力
これこそが、整体において僕らが体力と呼んでいるものだ
そして、その能力を育てるものとして愉気がある
世界は生きるに足りる愉しい場所である、と
ここから、なぜカタなのか、という問題に踏み入っていくことになる
2019年6月16日日曜日
2019年6月14日金曜日
専業主婦論争
専業主婦なりたいとおっしゃる
えっ、でも主婦力、私の方が高いんですけど
ご飯用意するというので待っていたら
専業主婦って、高度成長期に出現した特異な現象なのね、と講義しても、聞く耳を持たない
えっ、でも主婦力、私の方が高いんですけど
ご飯用意するというので待っていたら
パンと野菜と豆とチーズがお皿の上に並んでいた
これらは素材ではないでしょうか?
と疑念を素直に申し上げると、これで私は十分だとおっしゃる
これらは素材ではないでしょうか?
と疑念を素直に申し上げると、これで私は十分だとおっしゃる
たしかに...
でも、僕がドレッシング作って野菜にかけたら、
美味しいね〜と言ってむしゃむしゃ食べていたのはどなた
洗濯、アイロン掛け、お掃除はほどよく分担
料理は私に一日の長ありー料理は買物からはじまるのです
繕い物はお任せします
でも、僕がドレッシング作って野菜にかけたら、
美味しいね〜と言ってむしゃむしゃ食べていたのはどなた
洗濯、アイロン掛け、お掃除はほどよく分担
料理は私に一日の長ありー料理は買物からはじまるのです
繕い物はお任せします
専業主婦って、高度成長期に出現した特異な現象なのね、と講義しても、聞く耳を持たない
でも、家事が主婦の専権事項であるという考えかたは到底受け入れられないし、
この愉しみを奪おうとする方とは一緒に暮らせない
この愉しみを奪おうとする方とは一緒に暮らせない
結局、一緒に居るだけでいいよ、という一点で妥協
ようやく歯車が噛み合って前に進みはじめたところです
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