2019年7月5日金曜日

ソマティックス 5

といいながら、もう少しだけ

時代の空気、というものはあるだろう
自分というものが、他者性を取り込むことで形成されていくとすれば→「
身近に接していた人たち(人とは限らないが)を通して、
あるいは、もっと直接的にその時代の空気を取り込んでいるにちがいない
じぶんさがしをはじめたのも、このような理由による
ぼくらは明治150年の申し子だ
ぼくらは孤児だ
ならば稽古しようぜ、という結論は我田引水がすぎるか

2019年7月4日木曜日

ソマティックス 4

ソマティックスのつづき

自分がやっていることをどういう文脈で語ろうとするのか
ぼくの場合だと「教育」という切り口でどう語れるのかをテーマとしている
たどりついたのが「身体教育」だったというのは必然的だったというべきなのか

体験はどのように同化吸収されるのか、というのが出発点だった
そこから、どのような身体であれば、同化吸収がよりよく行われるのか、に向かい
そこからまた、体験するとは、いったいどういうことなのかに戻っていった
ぐるぐる回ってる

体験するとは他者性をわが身に入れていくことによって変容していく過程であり、
わが身とは他者性で出来上がっているとも言える
生きていくとは身体を歪めていくー偏らせるというべきかー営みであり、
偏りによって生成されていくものが私であれば、私が確立されていけばいくほど、
異なった偏りに沿って生きている存在である他者との同調は難しくなっていく
そこで、カタという自己を無力化させる「技」によって同調を図ろうとする
これもまた、ぐるぐる回っていく

これで一区切り、かな

2019年7月2日火曜日

食生活

ここ一年でいちばん変わったもの
というと食生活になる
まさか、自分がベジタリアンになるとは思わなかった
菜食主義に宗旨替えしたわけでは無論ない
単に、肉を欲しなくなってしまったのだ
周期的に亢まる「肉食いて〜」という欲求に従って、肉料理を注文する
でも、いざそれを口に入れたとき予想したほどの感動がない
冷蔵庫にせめてベーコンくらい入れておこうと、買ってはくるのだが、
なかなか減らない、というか、買ってきていることを忘れる
最近は、冷蔵庫に肉類は入っていない
なんだかさみしい

乳製品は前から食べていたが、圧倒的に増えたのが豆乳を含む豆製品
豆腐油揚げは切らすことがない
で、昨日の夕飯メニュー
 ・玄米ご飯
 ・玉ねぎと卵の味噌汁
 ・ナスの味噌炒め 
 ・ひじきと油揚げと大豆の炒め煮
 ・冷奴 ・佃煮
これを居間の小さなテーブルに並べ、ちょっと暗い電球(LEDだけど)の下で、
正座していただく
しみじみと、「昭和だ〜」と思う
昭和も昭和、ひょっとすると高度成長期以前の食卓風景ではないか

2019年7月1日月曜日

グリーンカーテン

グリーンカーテンに挑戦中
昨年、知り合いに分けていただいたフウセンカズラ一株を庭の片隅に植えたら、
どんどん増えて、庭の一角を占拠してしまった
その勢いに驚き、今年は自家採りした種から苗をつくり、上に伸びるようロープを張った
天神市で買ってきたゴーヤも隣に植えてみた
玄関側には、フウセンカズラと一緒に、朝顔夕顔をプランターに植えてみた
日当たりの良い玄関側にの植物のほうが勢いがある
梅雨に入り、勢いを増してきた
さて、梅雨が明けるまでに、どこまで伸びてくれるだろうか


2019年6月30日日曜日

6月の読書

ガケ書房の頃* 山下賢二 夏葉社 2016
ケアするまちのデザイン* 山崎亮 医学書院 2019
似合わない服* 山口ミルコ ミシマ社 2017
イスラムが効く!* 内藤正典・中田考 ミシマ社 2019
東欧サッカークロニクル* 長束恭行 カンゼン 2018
弱いつながり* 東浩紀 幻冬舎 2014
ハウス・オブ・ヤマナカ* 朽木ゆり子 新潮社 2011
建築を気持ちで考える* 堀部安嗣 TOTO出版 2015
江戸おんな絵姿十二景 藤沢周平 文藝春秋 2016
蜜蜂と遠雷* 恩田陸 幻冬舎 2016
シベリアの掟* ニコライ・リリン 東邦出版 2015

2019年6月27日木曜日

ソマティックス 3

ソマティックについて書こうとしているのか、片桐ユズル論を書こうとしているのか判然としなくなってきた(笑)

文化によって身体は変わるのか、ほんとうに「日本人の身体」というのはあるのか、というのは大問題だ。整体ではー少なくとも身体教育研究所においてー「ある」としている。一足飛びに普遍的な(科学的医学的生理学的と言い換えてもいいのかもしれない)身体に行く前に、身体を文化的な存在として捉えようとしている。もっというと、科学的身体観というのも今の世界に広がっているひとつの方言(dialect)に過ぎないという立場だ。「英語は世界共通語なんかじゃありませんよ、まず母語をちゃんと学びましょう」、というのが僕らのアプローチと言ってよい。

プロではないけれど、翻訳の仕事は随分してきた。でも、やってみればわかるけれど、母語が貧しいとろくな翻訳は生まれてこないし、自分の無教養さばかりがどんどん露わになってくる。ぼく自身は、翻訳は可能だし、母語以外の言語を学ぶことによって言葉世界が豊穣になるという立ち位置だし、これはもう変わることはない。でも、無教養であるって、なさけないんだ。無教養とは知識の欠如ではない。古典的感覚経験の欠落なのだ。

薄い膜の正体がすこし見えてきた。

2019年6月26日水曜日

ソマティックス 2

ソマティックへの違和感について考えている。
この膜一枚隔てたもどかしさは何に由来するのだろう。

ひとつは、誕生と死の部分の欠落。欠落というと言いすぎで、○○的な出産術とか、○○式看取り法といったものはきっとあるのだろう。でもどこか、細分化されてて、技法化されていて、トータルな生き方にたどりついてない印象。随分、偏見に満ちた見解だなとは思う。この偏見は、ぼくの中にある、自己啓発的なものへの忌避感と地続きなものだ、きっと。

明治以来、欧米的身体観ー西洋医学的身体が輸入されてきて、その身体観を内面化させてぼくらは現代を生きている。意地の悪い見方をすれば、日本人の体に西洋的身体を接木しようとして、そこの齟齬から発生した諸問題をソマティックという西洋的裏技法によって解決を図ろうとしている、ようにも見える。じゃあ、問題が解決されたとして、次、いったいどのような身体が立ち現れてくるのか。我ながら意地悪だ(笑)。

片桐ユズルと出会ったのは1970年代中期で、輸入されたカウンターカルチャーという文脈の中で出会っている。ユズルさんは英語の先生で、かつ輸入業者。ぼくは別称ヒッピー大学を卒業したばかり。ユズルさんは、カバンの中からいろんな品物を取り出し、次々にテーブルの上に並べ、これを試してごらん、これも面白いよと誘惑してくる。国産の「整体」もなぜかワンオブゼムで一緒に並んでいた。いろいろ体験させてもらい、十年もたった頃、ぼくは整体の道に進むことを決めたのだった。

もう少し続けます。