ずうーっと引き摺って60の歳までやってきた、ということなのね
カタというものを鋳型として捉えれば、それはもう、そこから逃げ出すしかない
1950年代、60年代に育った若者がアメリカ文化にひかれていったのは当然
なんせ、日本にはない自由があるように見えてしまったのだから
「私はJ I S規格に適合すべく生産された工業製品である」と書きしるし、公教育を批判するところから、僕の卒論(1976年)は始まっているくらいだ
そして40年たった今、ようやくカタにたどり着いた、と言う訳だ
はっきり言って、「なにやってきたんだろオレ」、みたいな心境
それにしてもカタというのはすごい発明だ
不自由なものこそ自由であるという発見
カタに入らなければ、他者とも出会えない
カタに入ってはじめて人は外に向かって開かれていく
つまり、生きていくには「技」が要るのよ、というのが結論だったりする
その技の伝承を教育と呼ぶ
教育における「自発」「自主」なんてのは、一から定義し直す必要があるのでは
「それは、キミの自主性に任せるよ」って言葉は、責任放棄の言い訳に過ぎない
と言いながら、自分の子供に何度も使ってきた気もする
やはり、トホホだ
生きる技術って、カタの中でどれだけ自由に動けるかということだし、
創造性って、新しいカターつまり、新しい制約ーを発見する
という意味になる
若者よカラダを鍛えよー動法せよ
感覚を磨けー内観せよ
そんなこと言う資格がぼくにあるのか、そうとうにあやしいけれど、
反面教師の役目くらいはまだ残っているだろう
それにしてもカタというのはすごい発明だ
不自由なものこそ自由であるという発見
カタに入らなければ、他者とも出会えない
カタに入ってはじめて人は外に向かって開かれていく
つまり、生きていくには「技」が要るのよ、というのが結論だったりする
その技の伝承を教育と呼ぶ
教育における「自発」「自主」なんてのは、一から定義し直す必要があるのでは
「それは、キミの自主性に任せるよ」って言葉は、責任放棄の言い訳に過ぎない
と言いながら、自分の子供に何度も使ってきた気もする
やはり、トホホだ
生きる技術って、カタの中でどれだけ自由に動けるかということだし、
創造性って、新しいカターつまり、新しい制約ーを発見する
という意味になる
若者よカラダを鍛えよー動法せよ
感覚を磨けー内観せよ
そんなこと言う資格がぼくにあるのか、そうとうにあやしいけれど、
反面教師の役目くらいはまだ残っているだろう