関東周辺の複数の稽古場担当者が寄り合って、
「集注稽古」という名称で稽古会を開催していた時期がある
盛んに行なっていたのは十年くらい前のことで、
近年その回数はずっと減ってしまった
指導者というのは、他の指導者の稽古に接する機会がない
機会がないというよりは、無意識に避けているといってよい
比べられるのが嫌なのだ
同じ稽古場を担当しているMさんとだって、一緒に稽古する機会が多いわけではない
ナオエさんが生きていた頃だから、もう十年も前のことか
二日間の稽古を6人の担当者でやったことがある
一日3コマを二日間、ひとり1コマ担当
参加者にとっては贅沢かつ面白いものであったにちがいない
ところが、ぼくの感想は違っていて、
「なんでそんなに自分の人生を晒すのか!」と戦慄した
一人ひとりの人生の有り様が稽古の中に濃厚ににじみ出ていたからだ
D先生のやってきた稽古をそれぞれの稽古会に持ち帰り、
それを次のグループに伝えていくというのが指導者の役目
しかし、同じ稽古を違う担当者がやると、違った稽古になるというのは普通にある
つまり、D先生の理解の仕方というのは百人百様ということだ
ただ不思議なことに共通の空気感は醸し出される
定型の稽古の中にもその人の人生がにじみ出てくる
自分がそんな風にして自分の人生を振りまいてるのかと思うとそら恐ろしい
ただ、人生というとあまりに大げさに過ぎるから、
ここでは「身体観」と呼ぶことにしよう
実際、稽古の中に発現するのは、その人が身体をどう捉えているか=身体観なのだ