2023年3月30日木曜日

3月の読書

 インスタのおかげで、以前より、この欄が充実してきた。本の読みかたも以前より丁寧になった。それだけ書影の力は大きいのだね。

 シンクロと自由* 村瀬孝生 医学書院 2022 
 同僚のY女史は、「わたしゃ103歳まで生きる」と決めていて、一緒に歳取ろうと広島弁で迫ってくるのだが、僕は逃げ腰である。とはいえ、70代に入り、これから先、自分がどのように老いていくかには興味がある。一人の人間に与えられたその時々の能力の総和は一生不変で、なにかを獲得するということは、なにかを捨てているというトレードオフの関係にあるのではないかという仮説を立てている。耳が遠くなってきた私にはなにが育ってきているのだろうか。
 ボケの出てきた人に「認知症」というラベルを貼るのは現在の社会制度である。それを病気として扱うことで本人と無関係に周りは安心する。このシンクロと自由 では、そのような老人たちは、時間からも役割からも解放されつつある存在であり、老人たちに丁寧に付き合っている中で介護者側の通念が揺らいでいく様が、スリリングに描かれている。基準となっている社会制度、社会通念は、思っているほど堅牢なものではなく、背景が少しずれるだけで、物事の見え方は変わっていくのだ。
 この医学書院のケアをひらくシリーズ 、どれもこれも秀逸で、おそらく半分以上読んでいるのではないかしら。

語学の天才まで1億光年* 高野秀行 集英社インターナショナル 2022 
 新しい著書が出ると、ほぼ必ず読むという著者が、おそらく10人くらいいる。高野秀行もその一人。大自然を相手にした正統派冒険家の本も好きだが、そこからちょっとズレてしまい、人の間にどんどん入っていく高野秀行の方により惹かれてしまう。この本を読みはじめ、え、こんなに文章下手だったっけ、と戸惑う。なんか肩に力入りすぎ。言語を軸に話が展開していく今回の本は、これまでの現地シリーズと随分趣きが違う。現地の話はもちろんたくさん出てくるが、「言語と青春」という自伝的要素が強い。早稲田の仏文でコンゴ人作家の小説を卒論にして最高得点を獲得するという輝かしい経歴を持っているなんて想像しなかった。整体協会の理事を務められていた加藤尚宏先生の授業に出ていた可能性もある。

れるられる* 最相葉月 岩波書店 2015
 出版直後に読んでいたはずなのに、図書館で再び借りて読み始めたら、中身をまったく覚えていない。この本の中で参照されていた、映画「大いなる沈黙へ」がAmazonプライムで見られることを知り、早速観てみた。修行者の表情を正面から至近距離で10秒間ただ撮るというショットが随所に挿入されている。このシーンが印象に残る。

土と文明史* デイビッド・モントゴメリー 築地書店 2010
 「土・牛・微生物」「土と内臓」と読み進め、同じ著者の三部作を逆方向に読んできたことになる。 

韓国カルチャー* 伊東順子 集英社新書 2022
 僕の韓国理解は30年前で止まっている。というか、そもそも理解などしていなかったのだというこを、去年、斎藤真理子 さんの韓国文学の中心にあるもの と出会うことで痛感したのだけれど、では、この30年の空白をどのように埋めていけばよいのだろう。手掛かりになりそうな一冊と出会った。韓国映画にも言及されていて、さっそく、朝鮮戦争をテーマにした「国際市場で会いましょう」を、これまたAmazonで観てみた。韓国で1400万人が劇場に足を運んだという2014年の作品。後半の離散家族探しの場面では、もう滂沱の涙。公開当時の劇場の様子はどうだったんだろう。

22世紀を見る君たちへ*平田オリザ 講談社新書 2020
 月末に豊岡に行くことになった。5年前に僕の稽古場で短期間稽古に来ていたアルゼンチンの知人がKIAC(城崎国際アートセンター)のアーティストinレジデンスプログラムで来日するとのこと。城崎まで出かけて行って稽古するのかー。豊岡遠い。予習のつもりで、そのKIAC立ち上げのキーパーソンである平田オリザ の近著を読んでみることにした。なんと、大学入試制度について書かれた本だった。入試制度に関しても、自分の頭の中がアップデートされていない。少子化で定員上は大学も全入の時代に入り、大学の側も優秀な学生を集めるのに工夫が求められている。入試改革を梃子に、その下の世代の教育も変えていこうという目論見なのだが、有象無象なだれ込んできてスムースに改革は進んでいかない。地方自治体が小中一貫教育をやる時代なんだ。教育制度の改革とふるさと創生が手をつなぎ、移住の促進によって少子化を食い止める。なるほどね。豊岡市はそのような道を模索している。KIACの立ち位置が少し理解できた気がする。

2023年3月23日木曜日

遍路2023 その3

28番札所大日寺を打って、今回の遍路行は終了。そこからさらに4キロ歩いてJR土佐山田駅にたどり着く。遠隔みどりの窓口で切符を買い、岡山行きの特急南風に乗り込む。座っているだけなのに体が「運ばれ」ていくという不思議。

列車は大歩危を過ぎ、善通寺を経て、瀬戸内海を越えていく。休日前のせいなのか、岡山駅は混み合っている。新幹線で新大阪、そして京都。わずか4時間で高知から京都に帰ってくるという不思議。

今回歩いたのは、23番札所薬王寺から28番大日寺。お寺間の距離にして150キロ。実際に歩いた距離は180キロ。それを8日かけて歩いてきた。ここから、高知市内に入り、1番から最も遠い足摺岬を目指すことになる。ますます、帰って来れなくなってくる。

帰って来て三日目。朝5時になると、まず脚が目覚めてくる。そして「さあ、今日も歩こう」と呼びかけてくる。おいおい、今日はオフなんですけど。続きは来月。

2023年3月22日水曜日

遍路2023 その2

隧道の壁を伝いて遍路ゆく

徳島から室戸岬を経て高知に至る国道55号線をひたすら歩く。徳島側はトンネルも多く、車がビュンビュン走っている横を歩くことになる。海沿いとはいえ、アップダウンの繰り返し。幸い天気には恵まれた。何日か歩いたあと、宿の洗面所に鏡に映る自分の顔に驚いた。日焼けしてる。

舗装道路は人間の脚には優しくない。いや、これは罰ゲームなのかというくらい過酷である。歩道もあるが、これももちろん舗装されていて、おまけに車道よりも小さなアップダウンがあって、それがつらい。いっそ、フラットな車道の端っこを歩いた方が楽だったりする。アスファルト道というのは、コミュニケーションを拒絶しているとしか思えない。かろうじてコミュニケーション可能なのが、側溝を覆うために置かれたブロックの上を歩くこと。その下にある空気を感じ取りながら歩くと脚もひと息つく。道路脇に落ち葉が溜まっていたり苔に覆われていると嬉しくなる。

阿波は発心の道場で、土佐は修行の道場と言うらしい。いつごろ誰が言いはじめたのか知らないけれど、コピーとしては優れている。たしかに徳島を歩いているときには、なんでこんなこと始めちゃったんだろうという迷いがあった。でも室戸岬を目指して歩き始めると、もう前に進んでいくしかない。関西からの玄関口である徳島駅から、どんどん遠ざかり、高知まで歩かないと京都に帰ってこれないのだ。



遍路2023 その1

遍路から帰ってきて体重計に乗ったら、微塵も減ってない。
荷物は7キロ。今回持って行ったものは一通り使ったから、どう軽量化していけばよいのやら。

遍路は前に進まなくてはならない
しかし、先をを急いではいけない
というのが去年阿波路を歩いて得た教訓だが、今年の遍路行は、「土佐路を軽快に駆け抜ける」 というイメージで始めることにした。が、初日にして「軽快」が消え、二日目には「駆け抜ける」を「歩き通す」に差し替えた。

休憩時間、迷う時間を含めると時速3キロである。一日25キロがせいぜいであり、今時点の適量。健脚の人は、普通に30キロ35キロ先の宿を予約して歩いているが、今の僕には度を越えている。それでも、一日25キロ歩いて宿にたどり着くと、手すりに掴まらないと階段を登るのが困難なくらいボロボロになっている。でも、風呂に入り、普段の三倍量の夕食をいただいて布団に入ると、朝には復活している。大袈裟に言ってしまえば、毎日、死と再生を繰り返すことになる。

23番薬王寺から24番最御崎寺まで75キロ


2023年3月13日月曜日

半世紀 5

 秋ぐらいに某団体の集会に呼ばれて稽古会をする可能性がある。まだ確定ではないのだけれど、いちおう、どんな内容をやろうとしてるのか教えてくださいとのことなので、文章をでっちあげてみた。ここまで書いてきたことのまとめみたいなものか。

<ひとにふれる せかいにふれる>
 世界を知るにはふれることからはじめなければならない。自と他の境界線上に感覚という経験が生まれる。その感覚経験が身体によって消化・同化されて、はじめて身に付くことになる。これを「身体化」と呼ぶ
 ところが、人は文字通り人それぞれであり、同じ時間、同じ場所にいたところで、ひとりひとり「感受性の方向」が違う故に、体験の質はそれぞれ異なったものになる。消化された食べものが人の体をつくっていくように、同化された経験が、その人の体をつくっていく。つまり身体化のプロセスにおいて、そこには必ず他者の存在があり、また、体験を受け止める一人ひとり異なった感受性がある。よって、身体ははじめから個性的である。
 人が他者にふれると、そこで感覚経験が生まれる。では、人はどのように他者にふれればよいのだろう。相手を操作しようとふれる者がいる。相手と同調しようとふれる者がいる。では、同調的にふれようと意図して、実際に相手にふれたとき、そこに同調は生まれるであろうか?
 困ったことに、自動的に同調は生まれない。なぜなら、まず、ひとりひとり異なった身体を有しているからである。次に、ふれるための手は、操作することが習慣化されているからである。同調なき接触は、たとえ本意ではなかったとしても操作的にならざるをえない。人間関係の困難は、この齟齬から発生するといってもよい。
 人と人が(モノであっても同様)、どのように同調的な関係を切り結べるのか、人は体験というものをどのように同化・身体化していくのか。整体の知見をベースに、このような研究を身体教育研究所では行っています。また、すべて稽古という、実際に体で経験する会として提示しています。

(しばし休憩)

2023年3月11日土曜日

半世紀 4 京都

1975年から1986年までの十年間、京都で暮らした。20代から30代前半に当たる。一昨年だったか、一年かけて、当時付き合いの多かった片桐ユズル編集発行の「かわら版」20年分をデジタル化する作業をやった。整体にすすむきっかけを与えてくれたのは片桐ユズルだったし、彼自身手広く、いわゆるボディワークを輸入していた。それはともかく、かわら版のデジタル化作業をやりながら、70年代後半からの京都暮らしは、僕にとっての揺籃期ーつまり、異文化に攪拌されて輪郭を失っていた私が、新しい輪郭を作っていた時期に当たっていたということだ。おい、10年もかかったのか。これとて、事後的に作り上げた、仮説のひとつなのだけれど。

「風邪の効用」は教育の書として読まれるべきだということを言い続けている。晴哉先生の「経過」という思想は、「学び」について考える上で、決定的なものであった。風邪をひき、それをうまく経過させれば体は、それ以前より丈夫になる。これって、「culture shock fever」のことじゃないか。我が意を得たりとはこのような心境のことをいう。それでも身に染み込んでいる私自身の傷病感、健康観のようなものが邪魔して先に進ませてくれない。身体の時間と精神の時間は、流れている質が異なっているのだ。ここから身体教育研究所の時代に入っていく。1988年のことだ。娘が生まれた年でもある。

(つづく)

2023年3月10日金曜日

風邪(追記)

先月半ばに風邪を引いたことは書いた。
発熱は数日で終わったが、結果からいうと、やたら低温期の長い風邪で、月末まで十日ほど、低温期が続いた。2月は禁糖と風邪で過ぎていったことになる。

今月はじめ石川に行き、白山稽古会の人たちの話を聞いて笑ってしまった。皆さん先月の稽古会のあと軒並み大風邪を引いている。僕が風邪引いたのは、白山稽古会から帰ってきて数日後のことだから、ほぼ同じ時期になる。等持院に来ている人たちの間でも風邪は流行っていたようで、来る人来る人、先月は風邪をひきまして、という話題になる。しかも、やはり同じ時期。インフルエンザだったのかコロナだったのか分からないけれど、これほど周囲が同時多発的に風邪をひいたという経験はあまりない。

まずまず上手に経過できたようで、3月に入ってから、お遍路に出る力が湧いてきた。

2023年3月9日木曜日

半世紀 3 身体

十年サイクルで教育のことを書きたくなるらしい。10年前、「なぜ身体教育なのか?」と題した文章を書いている。いま書いたとしてもいく同工異曲、大同小異のものしかでてこないと思うが、どのような小異になるのだろう。

1970年代後半から80年代にかけ、僕が「culture shock fever」と呼んでいた、「異文化への適応過程における体調不良とその経過」というテーマは、そのまま、「体験学習という理念は、どのように実現されうるのか」というテーマに横滑りしていくし、「人はどのように学ぶのか?」という大テーマに敷衍していくこともできる。この時点ーおそらく1970年代後半あたりーに大きな岐路があったらしい。もっとアカデミックな「教育学」に向かっていれば、ちがった人生が展開していたのかもしれない。ほんと、パラレル・ワールド

ところが、学びにおけるキーワードとして「身体」が浮上してくる。ここから先は、もう整体の独壇場といってもよい。言い換えると、整体の学びを深めていく以外、自分自身のテーマの追求はあり得なくなってしまう。これは大変だ。整体協会には整体協会の掟がある。

(つづく)

2023年3月8日水曜日

半世紀 2 ライフワーク

いまを起点にして半世紀前を振り返るというのは危険を伴う。
そこから現在に至る道筋を自分に都合のよい物語として描いてしまうことになってしまうだろう。なんせ、その時には、自分の未来がどのように動いていくのかまったく未知数だったわけだから。事後的に振り返れば、ああ、あの時代、自分がどのような段階にいて、なにをやろうとしていたのだと記述することは可能だろう。でも、それでよいのかという疑念は拭えない。

ライフワークというのは、その人がどのような異化感を人生のどの段階で何に対して持ったかによって決定されるのではないかというのが、僕の仮説。もちろん異なった経緯でライフワークと出会うことだってあるに違いない。僕の仮説が僕一人にしか適用されなくってもぜんぜん構わない。実際、ライフワークがライフワークとして意識される、あるいは浮上してくるのは、そうとう後の段階であったりする。

ひとはなぜ海外に行って、3ヶ月暮らすと体調を崩すのだろう?というのが一途最初に浮かんだ疑問だ。僕自身そうだったし、周りを見回すと同様の経験をしている人は多かった。もちろん個人差は大きくて、いきなり体調を崩す奴もいれば、一年経った頃、ガツンと来る奴もいる。それを経験した後で、異文化への馴染み度が一気に変化する。不思議だった。このような事例に気づいたのは、おそらく整体の考え方が僕に入りはじめた時期と重なる。1970年代の後半、地球をひと回りして帰ってきて数年後のことになる。

(つづく)

2023年3月7日火曜日

半世紀 1 1973年

はじまりは1973年。
それから半世紀が経ったことになる。
岡山の田舎で過ごした20年ののち、僕は太平洋を渡った。それが1973年の8月。
旅は20ヶ月後の1975年4月まで続き、そこから、整体に出会うまでさらに3年。
コロナ期の前には、第二次ワールドツアーなども計画していたのだが、どうもそのような気配はない。静かに四国遍路を続けることにする。

1973年と2023年
半世紀の間に世界は変わってしまった。
1973年、世界の人口は39.2億。それがいまや79.7億人だという。
もっとも、日本の人口は少し増えたとはいえ、1.087億に対して、1.246億。
すでに人口減少期に入っているからー去年1年で80万人減!ー1973年レベルには、すぐ戻ってしまうだろう。
人口の変化は多くはないが、人口構成割合は大きく変わった。
15歳までのこどもの人口比率は1973年で24.3%、それが今や11.9%.
一方、65歳以上の老人比率は、7.9%から28.9%に上昇、つまり少子高齢化社会。

1973年に1ドル360円という固定相場時代は終わったが、僕の記憶には1ドル300円というレートがしっかり刷り込まれている。国際電話の料金は3分3000円。携帯電話はまだない。インターネットも無論ない。世界は今よりもずっと広く、ずっと遠かった。

(つづく)