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2019年6月25日火曜日

ソマティックス 1

ボディワークの意味がわからない。
ソマティックになると、もっとわからない。
片桐ユズルとの縁で、ソマティック心理学協会というグループが主催するで稽古をやってきた。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で謎のままである。

片桐ユズルが僕を呼んだのは、「整体は日本を代表するソマティック」なのに、「引っ込み思案で、宣伝もしないし、なかなか外に出てこない人たち」だから、これを機に、カミングアウトした方がよい、というユズルさんなりの好意の表現でもある。会そのものは楽しかったし、真面目な人たちの集まりだな、ということはよくわかった。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で依然謎のままである。近くに居るらしいのだけれど、薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たちという印象なのだ。

片桐ユズルに話を聞く機会は最近多い。
得体の知れないソマティック関係者のなかで、アイコン的な存在になっている風もある。本人も、モテ期に入っていると自覚しているらしい。オルダス・ハクスリーが著書の中で、「アレキサンダーテクニック(AT)は素晴らしいといっていたから、ぼくはATの勉強をはじめた」という説明は非常にわかりやすい。このあたりが、日本におけるボディワークやソマティックの流れを理解する上で鍵になりそうだ。ヒューマンポテンシャルムーブメントがあって、エサレンがあって、oshoがいて...みたいな流れなのか。

薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たち...。
なんなんだろうね、この違和感は。

2022年10月9日日曜日

身体観 2

 ひとつの技法にはそれを支える身体観があり、その身体観にはそれを支える世界観がある。ソマティック心理学協会のWebページにいくと、ソマティックワークと呼ばれている、さまざまな技法が列挙されていて、そのなかほどに「野口整体」が顔を出している。つまり、大きな括りとしてボディというジャンルがあって、その中に多くの技法が包含されているという図式なのだ。

 ここにきてやっと、僕のソマティックへの違和感の源が見えてきた。それぞれの技法が、それぞれの世界観の上に立っているのであれば、その世界は技法の数だけあり、それぞれの世界の中で、誕生から死に至る生を営んでいけばいいだけの話であって、徒党を組む必要などはじめからないのだ。それとも、ひとつの技法からもうひとつの技法へ引っ越ししていく、あるいは並列させていくことが可能であると考えているのであれば、ちょっとお人好しが過ぎるのではなかろうか。整体の世界の住人として、ソマティックの会を前にそんなことを考えた。

 さて明日はなにしようか。「まなざす」がテーマなので、等持院の稽古会の人たちに付き合ってもらって、仕込みにかかったのだが、結局のところ、どう自分の体を観るかという一点に絞り込まれた。つまり、内観の世界。与えられた時間は75分。さてどこまでできるかな。

2019年6月26日水曜日

ソマティックス 2

ソマティックへの違和感について考えている。
この膜一枚隔てたもどかしさは何に由来するのだろう。

ひとつは、誕生と死の部分の欠落。欠落というと言いすぎで、○○的な出産術とか、○○式看取り法といったものはきっとあるのだろう。でもどこか、細分化されてて、技法化されていて、トータルな生き方にたどりついてない印象。随分、偏見に満ちた見解だなとは思う。この偏見は、ぼくの中にある、自己啓発的なものへの忌避感と地続きなものだ、きっと。

明治以来、欧米的身体観ー西洋医学的身体が輸入されてきて、その身体観を内面化させてぼくらは現代を生きている。意地の悪い見方をすれば、日本人の体に西洋的身体を接木しようとして、そこの齟齬から発生した諸問題をソマティックという西洋的裏技法によって解決を図ろうとしている、ようにも見える。じゃあ、問題が解決されたとして、次、いったいどのような身体が立ち現れてくるのか。我ながら意地悪だ(笑)。

片桐ユズルと出会ったのは1970年代中期で、輸入されたカウンターカルチャーという文脈の中で出会っている。ユズルさんは英語の先生で、かつ輸入業者。ぼくは別称ヒッピー大学を卒業したばかり。ユズルさんは、カバンの中からいろんな品物を取り出し、次々にテーブルの上に並べ、これを試してごらん、これも面白いよと誘惑してくる。国産の「整体」もなぜかワンオブゼムで一緒に並んでいた。いろいろ体験させてもらい、十年もたった頃、ぼくは整体の道に進むことを決めたのだった。

もう少し続けます。

2022年10月5日水曜日

身体観 1

  「秋のソマティック京都フォーラム2022」(10月10日 主催 ソマティック心理学協会)が近づいてきたので、なにやるか思案中。そもそも、なんで呼ばれるのか謎。片桐ユズルのご指名なのでという以上の理由が思い浮かばない。三年前、やはり、この会に呼ばれたことあるのだけれど、「ソマティックス?」にも書いたけれど、もやもや感が残った。

 今回は、はからずも「まなざし」が共通テーマになっている。外の世界を見る以前に自分の体をどう観ていくか、というところから始めてみようか。つまり身体観の話。ひとつの技法の裏には、その技法を支える身体観というものがあり、その身体観の裏にはその身体観の基盤となっている世界観というものがある。内面化された支配的な身体観/世界観とどう対峙していくかという問題である。




2019年6月27日木曜日

ソマティックス 3

ソマティックについて書こうとしているのか、片桐ユズル論を書こうとしているのか判然としなくなってきた(笑)

文化によって身体は変わるのか、ほんとうに「日本人の身体」というのはあるのか、というのは大問題だ。整体ではー少なくとも身体教育研究所においてー「ある」としている。一足飛びに普遍的な(科学的医学的生理学的と言い換えてもいいのかもしれない)身体に行く前に、身体を文化的な存在として捉えようとしている。もっというと、科学的身体観というのも今の世界に広がっているひとつの方言(dialect)に過ぎないという立場だ。「英語は世界共通語なんかじゃありませんよ、まず母語をちゃんと学びましょう」、というのが僕らのアプローチと言ってよい。

プロではないけれど、翻訳の仕事は随分してきた。でも、やってみればわかるけれど、母語が貧しいとろくな翻訳は生まれてこないし、自分の無教養さばかりがどんどん露わになってくる。ぼく自身は、翻訳は可能だし、母語以外の言語を学ぶことによって言葉世界が豊穣になるという立ち位置だし、これはもう変わることはない。でも、無教養であるって、なさけないんだ。無教養とは知識の欠如ではない。古典的感覚経験の欠落なのだ。

薄い膜の正体がすこし見えてきた。

2019年7月23日火曜日

ソマティックス 6

つまりのところ、ぼくらは何を「からだ」と呼んでいるのだろう
ソマティックスという言葉は、おそらく、普遍的科学的医学的身体というものより、
もうすこし巾の広い存在としての「からだ」を捉えようとしているのだろうけど、
それに関わる人たちがお互いに言葉が通じていない状態なのだ
そもそも、「からだ」という括りは有効なのだろうか

自分の手を眺めてみる
普通、からだと呼んでいるのは、指一本一本であり、掌であり手の甲である
でも、ダン先生が「からだ」と呼んでいるものは、指と指の隙間、手の中の隙間であって、
普通にぼくらが思っている実体としての手ではない
意志が届かないものこそをからだと呼んでいる
牽強付会だろうと言われても、こう捉えていかないと整体の技法として成立しない
こういうからだの捉えかたは、ほかの「ボディーワーク」と接合しうるのか
ボディワーク1で書いた、膜一枚のもどかしさの源はこんなところにありそうだ

こうして、実体と捉えられているものから離れ、あるいは、実体でないものこそに
実質を求めている人たちとはジャンルを問わず接合しうる
ボディワークというジャンルなど、はじめからないのだ

2019年7月4日木曜日

ソマティックス 4

ソマティックスのつづき

自分がやっていることをどういう文脈で語ろうとするのか
ぼくの場合だと「教育」という切り口でどう語れるのかをテーマとしている
たどりついたのが「身体教育」だったというのは必然的だったというべきなのか

体験はどのように同化吸収されるのか、というのが出発点だった
そこから、どのような身体であれば、同化吸収がよりよく行われるのか、に向かい
そこからまた、体験するとは、いったいどういうことなのかに戻っていった
ぐるぐる回ってる

体験するとは他者性をわが身に入れていくことによって変容していく過程であり、
わが身とは他者性で出来上がっているとも言える
生きていくとは身体を歪めていくー偏らせるというべきかー営みであり、
偏りによって生成されていくものが私であれば、私が確立されていけばいくほど、
異なった偏りに沿って生きている存在である他者との同調は難しくなっていく
そこで、カタという自己を無力化させる「技」によって同調を図ろうとする
これもまた、ぐるぐる回っていく

これで一区切り、かな

2022年10月11日火曜日

身体観 3

 ソマティックの会無事終了。予想参加者数が25名(主催者の勘)というので、2本同時並行セッションの裏番組に当たる僕の担当稽古への参加者数を10名と見込んでいたのだが、蓋を開けてみると、リアル会場に50名近くが足を運び、裏番組ながら27名の参加者があった。「意志の届かない領域のことを体と呼ぶ」をテーマに団扇を使った「かくす・かくされる」の稽古。リノリウムの床に立った状態で稽古するという、ありえない環境下、75分の稽古はあっという間に終了してしまった。

 前稿「身体観2』では、技法ー身体観ー世界観の関係について考えてみたが、今回のフォーラムで取り上げられたハクスリーの場合、三者の繋がり方が違っていて、自分の世界観を、その途上で出会ったアレキサンダーテクニークなどの体験やインド哲学を取り込んでいくことで構築していった、という流れのようだ。思索家らしく精神から身体への方向性は明らかで、日本のソマティック心理学というのも、この方向性を踏襲している。ぼくが感じた違和感は、この方向性の違いに由来しているらしい。

2019年6月19日水曜日

とりのこようし

ソマティック関西フォーラムめがけて準備中
きっとアウェイだし、どういう流れで話するか考えておかねばと、
紙を継ぎ足しながらメモを書きつらねていると、
「とりのこようし」みたいね〜、と家人が声をかけてくる
なに、とりのこようし? いったい何だそれはと訊きかえすと、
なんだ、そんなことも知らないのかという風情で、模造紙のことよ、との返事
え、そんな呼び方聞いたこともない
小学校のグループ学習の時はね、云々という話からすると、世代の違いかもしれない
神戸、愛媛では、という話を聞くと、地域差のようにも思える
どうやら、「鳥の子用紙」、愛媛香川ローカルで流通している言葉らしい
机をかく(=運ぶ)、という表現もあるそうな

2019年7月5日金曜日

ソマティックス 5

といいながら、もう少しだけ

時代の空気、というものはあるだろう
自分というものが、他者性を取り込むことで形成されていくとすれば→「
身近に接していた人たち(人とは限らないが)を通して、
あるいは、もっと直接的にその時代の空気を取り込んでいるにちがいない
じぶんさがしをはじめたのも、このような理由による
ぼくらは明治150年の申し子だ
ぼくらは孤児だ
ならば稽古しようぜ、という結論は我田引水がすぎるか

2019年5月2日木曜日

動法入門

去年は子ども稽古会やりましたが、今年は大人向けです
ちょっと、大上段に構えすぎたかも
来月22日、ソマティック心理学協会という団体が主催する会でやることになりました

http://somaticjapan.org/3rd-kansai-forum2019

2019年6月16日日曜日

お知らせ

いくつかのお知らせ

●6/22 ソマティック関西フォーラムという会で、稽古やります
              土足で出入りする会場でどんな稽古が可能なんでしょうね〜
              履物は脱いで稽古しますので、靴下、願わくは足袋をご用意ください
    http://somaticjapan.org/3rd-kansai-forum2019 

●7/13 白山稽古会の会場が変更になります  → pdf

●8/4-5 石川合同稽古会のお知らせです  → pdf 

2019年7月8日月曜日

お知らせ 2019/7

いくつかのお知らせ

●7/9 南区DIY読書会で『近代日本一五〇年』について発表します
    19時45分〜 ちいさな学校くらまぐち → map
    レジメはこちら → pdf   (ソマティックスシリーズを読まれた方もどうぞ)

●7/13 白山稽古会の会場が変更になります  → pdf

●8/4-5 石川合同稽古会のお知らせです  → pdf 
   ・未会員は公開講話(13-16)しか出られないのかというご質問がありましたが、
    そういうことになります。
   ・但し、公開講話終了後、入会の手続きを行えば、続きの稽古(17-20)
    翌日(10-13)の稽古に参加可能です。