2011年3月13日日曜日
地震当日
2011年3月9日水曜日
ぼくが筆動法を稽古するわけ
ぼくらが書をみてなにかを感じるとき、それは、空間的な美しさもあるのかもしれないが、むしろ、書いた人の感覚や動きを自分自身の体でとらえているのだ。それは書に限ったことではない。音楽を聴いて感動するのだって、踊りを観て感動するのだっておなじことだ。野の草花に感動することだっておなじこと。
筆動法は、ぼくらが書を観て感じることを、逆にたどって、実際に筆を手にして字を書いてみようという試みだ。上手な字を書こうなんてことはみじんも思っていないし、実際、上手くもならない。でも、感動する能力は、少し身につくかもしれない。
筆動法をやるとき、手では書かない。無論、筆は持つ。ただし左手。左利きの人は右手で筆を構える。つまり利き腕ではもたないというのがルールその一。手では書かないといったけど、それは無理でしょうという質問がくる。すくなくとも書かないというつもりになる。なぜかというと、手というのは体からいえば末端にあたる訳で、末端から先に動いてしまうと、ナカの動きがわからなくなる。とりあえず、ここでいうナカというのは、胴体だと思っておいてもらえればいい。実際、手をどう扱うかというのは大問題なのだが、このことは後回しにする。
そうそう筆を手にする前に、墨をすらなきゃいけない。墨汁でいいじゃないかという人も出てくるが、ここはまず墨をすってみる。これって結構基本。墨をするにしても、やっぱり手は使っちゃいけないという。手ですらず、体でする。足首を返して座りー跪座といいますー両手首を膝に押しつけたところからはじめる。手首を膝を離してはいけないとすれば、もう実際に手は封じられたことになる。これで、墨を硯の上で滑らせようとすれば、胴体を動かすしかない。墨は硯の上を水平に前後運動しなきゃならない。 ということは、胴体も前後に水平運動しなきゃならない。これは大変。
ここからカタの問題が出てくる。これはかなり大事というか、このために筆動法をやっているといって過言ではない。跪座になって手首と膝をくっつけて墨スリするというのもひとつのカタ。つまりカタというのは、つまり動けなくしてしまうものなのですね。カタに入ると動けない。矛盾した言いかたになってしまうけれど、正確にいうとカタに入らないと動けない。ソトが止められてしまったら、あとはナカを動かすしかないですね。そう、ここからナカの感覚を動かすという稽古がはじまるわけです。
もっとも、実際には、ここにたどりつくまでが大変で、どうしたって外側が動いてしまう。無理矢理動かそうとする。力づくで動かそうとする。大半の人はここで脱落してしまいます。脱落してもらっては困るので、このところは甘くして、「まあ、十年かけてやってきましょう」と先に進めてしまいます。
2009年6月19日金曜日
阿部青鞋
1960年代前半、岡山の田舎町での話である
以下は、このブログをはじめる大分前(2002)に書いた文章
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■阿部青鞋(せいあい)という俳人の名前を知ったのは数年前、父母の句集のなかである。母の略歴のなかに「阿部青鞋先生に短歌の手ほどきをうける」とあった。そこではじめて、私の最初の英語の先生が「阿部先生」であったことを思い出した。はたして、俳人阿部青鞋と「阿部先生」は同一人物であったのだが、どうして東京生まれの俳人が岡山の田舎町に住みはじめたのか。
■調べてみるとなかなか面白い経歴をもつ人である。大正三年(1914)に東京に生まれ、1945年の終戦直前に岡山に疎開するまでは、軍隊に召集されていた時期を除き、ずっと東京にいたらしい。そんな人物が、どいういう経緯で岡山に疎開したかは謎。しかし、以後、昭和53年(1978)までの33年間、岡山県英田郡美作町に居住したとある。美作町に住みはじめて14年後、「米人宣教師の通訳を務めるうち聖書に親しんで受洗」(1959)とあり、その四年後には自ら牧師となっている。私が英語を習ったのは、この頃らしい。住んでいた町内会の建物を寺子屋のようにして英語を教えていた。飄々とした風貌で、モダンな空気をいつも身にまとっていたのをうっすら覚えている。
■横浜市立図書館に唯一あった、『俳句の魅力ー阿部青鞋選集』(沖積社 1994)を借り出して読んでみた。妹尾健太郎という人が編んだもので、阿部青鞋の句、随筆等が集められ、前段の略歴はこの本の巻末におさめられている「略年譜」からの引用である。新興俳句の旗手であった渡辺白泉らとも親交が深く、昭和15年頃、新興俳句が弾圧を受けてからは、ひたすら古典の研究に励んだとある。
■極めて個人的なつながりから阿部青鞋という人の足取りをたどっているのだが、残された俳句は素人目にも面白い。俳句の世界では、おそらく傍流に属していたのであろうし、政治的に動くタイプの人物ではなさそうである。俳壇という閉じられた世界にこだわっていた様子もなく、どことなくコスモポリタン。カラッとしたユーモアが基音として流れている。
うかんむりの空を見乍ら散歩する (青鞋)
【気刊あざみ野通信 199 2002/8/14】
2008年4月22日火曜日
お茶を稽古する
長く生きていると、じつにいろんなことが起こる。五十歳すぎてからお茶を習い始め、それが四年たったいまも続いているなどということは、かつての自分からは空想もできなかったことである。最初の二年は、杉浦くんと二人で月二回、せっせと橋さんのところに通った。盆点前で、袱紗さばきにはじまり、お茶の点て方を一通り教わった。むさくるしい男二人を前に、橋さんには、ご苦労をおかけしたが、こちらも、お茶と毎回かわるお菓子を目当てに通っていたようなもので、小さな子供が、お菓子食べたさにお茶のお稽古に通ったという話を笑えない。盆点前とはいえ、お茶の基本的な所作はすべて含まれているわけで、通しでやるとなるとなかなかむずかしい。もともとなにかを覚えようという意欲が乏しく、そのうえおさらいなど一切やらないので、一年たっても二年たっても上達したという自覚をもてない。稽古場では動法を教える立場であるのに、橋さんの前では、「ちゃんと脇を張って」などと叱られてばかりである。叱られる心地というのは、なかなかよい。
それでも半年を過ぎ、一年が近くなり、ひととおりの点前を終えると、今度はお茶会を開きなさいと言い渡されることとなる。デパ地下のお菓子売り場に、客に出すお茶菓子を買いに行くところからはじめ、客を迎え、その前でお茶を点て、喫していただく。私が呼んだのは自分の家族であったとはいえ、緊張しまくり、それでなくてもあやうい所作を飛ばしまくる。ほとんど学芸会の児童状態。亭主の役を務めたとはいえ、脇に橋さんがいなければ成り立たなかったお茶会であった。
お茶会が終わると、今度は稽古の場がお茶室に移る。盆点前と同じよと言われるものの、盆点前でやったことではまるで歯が立たない。厳しい。水屋で茶道具の用意をして、それらをお茶室の中に運び込むところからして難題つづき。ただ手順が複雑になるぶん、点てられるお茶の味は歴然と変わる。お茶の世界における音というのは、じつに不思議で、お茶碗に茶筅をコツリと当てる、柄杓を水蓋の上に、コッと置く、柄杓からお茶碗にお湯を注ぐ、あるいは客がゴクリとお茶を飲み干す。このような一連の音によって、風景が進んで行く。最初聞こえていた屋外からの人の声、車の音が遠のいてゆき、静かな集注の世界に入っていく。はじめがあり、途中の展開があり、そして終わりがやってくる。これがお茶の醍醐味なのかもしれない。
動作がつかえる時がある。時々ではなく始終ある。手順がうろ覚えということもあるが、たいがい何か違うことをやろうとしている時に止まる。しかたなく、そこでしばし佇んでいると、「こっち」という道が見えてくる。そっちに動き出すと、「ああ、こっちなのだ」と体がついて動いていく。そうはじめに流れありきなのだ。流れの中に自分の所作がぴたっとはまると、すらすらといく。どうしてこれが整体でできないんだと、つくづく思う。
お茶室に入って一年もたたないうちに、杉浦くんは名古屋に稽古場を開くことになり、以後、橋さんと一対一の稽古になった。それからすでに二年がたつ。