2018年1月4日木曜日

京都フォーラム

年末、書類を整理していたら京都フォーラムの抜き刷りが出てきた
タイトルは『生の充実、調和の感覚を求めてー「感応」と「内観」の整体思想』
1991年夏、京都の国際会議場で裕之先生が講演者の一人として呼ばれていった時のもの
私もカバン持ちで同行したのだが、なぜか、東京から夜行列車に乗った記憶がある
稽古場がはじまった当時の考えかたが、よくまとまっているもので、
これを稽古に来ている人に読ませてあげようと、バラしてスキャナで取り込んでみた
ところが、ほどなくして届いた月刊全生の1月号を開いて驚いた
この講演録がそのまま掲載されてるではないですか
裕之先生の文章が月刊全生に載るのは随分ひさしぶりー25年は経っているはず
その復帰作がこの講演記録であるというのは時宜に叶っていますね
編集長GJです
前エントリーでも書いたけれど、今年は稽古場30周年なので、「30周年」というラベルをつくることにしました


2018年1月3日水曜日

新年

新しい年明けです
今年は稽古場にとって創設30周年のビッグイヤー
そういえば、いただいた年賀状の中に、私の稽古に出ることで
「身体教育研究所の歴史を学ばせていただいている」というような文面があった
たしかに、せうそこも歴史発掘シリーズみたいになっている
本部稽古場が活動をはじめた数ヶ月後、月刊全生に「稽古場風景」という文章を書いたことを思い出したので、発掘してきました
ダン先生も含め、大半の参加者は洋服姿で、稽古着らしきものもすでに登場していることがわかります





2017年12月30日土曜日

12月の読書

米原万里* KAWAIDE夢ムック 2017
芸人と俳人* 又吉直樹x堀本裕樹 集英社 2015
「日本の伝統」の正体* 藤井青銅 柏書房 2017
発酵菌ですぐできるおいしい自由研究* 小倉ヒラク あかね書房 2106
語る兜太-わが俳句人生* 金子兜太・黒田杏子 岩波書店 2014
いま、兜太は* 金子兜太・青木健 岩波書店 2016
寂しい生活 稲垣えみ子 東洋経済新報社 2017

今年の発酵三部作 どれもよかった
 一汁一菜でよいという提案 土井善晴 グラフィック社 2016
 あなたの体は9割が細菌  アランナ・コリン 河出書房新社 2016
 発酵文化人類学      小倉ヒラク 木楽舎 2017

2017年12月28日木曜日

入力減

そうそう、
今年は入力が減った一年でもあった

まず、食べる量が減った
お盆過ぎ、急にものが食べられなくなり、
えっ、とうとうオレも胃がん?と連想してしまったのは、
父も妻も死亡診断書にそう書かれていたせい
なんだ食べなくてもいいんだ、と気づくまでひと月かかった
食いものの嗜好も変化して、肉いらない、豆腐と納豆と野菜があればいい
そんな風に変わってしまった
えっ、ベジタリアンになっちゃうのオレ、みたいな感じ

読書量も減った
活字を追いかける集中力がなくなった
耳も遠くなり、ダン先生の講義が聞き取れなくなってきた
危機感を覚えないわけではないが、
このまま人の話が聴こえなくなってしまったら「もう無敵だな」とも思う
でも、不便

動く範囲も狭くなった
毎月の石川行き、オフ毎の東京行きはルーティンになってるからさほど苦痛ではない
ただ、普段の生活範囲は随分と狭まった
観光客気分が抜けたというか、京都人になってきたというべきか
でも、この好奇心の低下というのは、いかんですね
そういうときには、なぜかよそから人が訪ねてきて、一緒に出かけることになる
ありがたいことです

娑婆

今年一年をひとことで言いあらわせば
娑婆に帰ってきた、
ということに尽きる

じゃあ、これまでどこに行ってたんだ?
という話になるのだけれど、
きっと、娑婆じゃないどっかに行ってたんだろう

娑婆という字、両方に「女」がいる
せうそこ女子チームにはほんと助けられた
娑婆に帰ってくるには女の人の力が必要だった

娑婆じゃないどっかに行きっぱなしでいるのも悪くない
そう思っていたのに、娑婆で生きろと引き戻された
そんなふうに感じている年の暮れです

2017年12月20日水曜日

布あそび

なぜか先送りにしていた来年のカレンダー購入
東京から帰ってきたら、「布あそび」と名付けられた立派なカレンダーが届いていた
企画・編集・デザインは、せうそこチーム三人組
なんて有能な人たち
そういえば、この夏、古布コレクション・カレンダーの話を聞いていたことを思い出した
熊谷はるさんという、画家熊谷守一のご長男のお嫁さんに当たる方が集めた古布の写真が潤沢に使われている
これでやっと来年のことを考えられそうだ


2017年12月3日日曜日

韓国で撮ってもらった写真を娘に送ったら、
「おじいちゃんに似てきたね」という返信が届いた
そうなのだ、なんか急にオヤジの風貌に似てきたと、自分でも思う
出かけた時、ショーウインドウに映る自分の姿が、オヤジそっくりなことに驚く
似てきたのは風貌だけではない
書斎のテーブルの乱雑さといったものまで似てきている
オヤジが座っていた津山の家の居間や江戸川の居室の惨状と同じものが再現されつつある

父の喪は一年で明けた
遺句集を編んだら、すっかり気が済んだ
妻の喪が明けるには三年かかった
せうそこの会でみとりについて話し、それが印刷物になって戻ってきたら、
前に進むしかない、という覚悟が生まれた
喪が明けるとは、忘れてしまうことではなく、
逝ったものたちとの記憶を忘れるほどに同化してしまうことなのだ

今年も、というべきか、何人もの友人知人たちがなくなっていった
つまり、縁の遠近はあるにせよ、僕らは、常に喪に服している