2018年11月8日木曜日
愉気の構造
読書会2回目の報告に向け準備を進めている。育児の部分をもう少し突っ込んでいけば、教育としての整体が浮き上がってきそうだ。さらにいえば「愉気の構造」の言語化が鍵になるという予感もある。おりしも、月刊全生の10月、11月号に晴哉先生の「子供の育て方」という文章が掲載されている。読書会でも話したのだけれど、もの言わぬ生きものの欲求ー空腹、排泄、体勢ーといったものを、どう大人はキャッチしていくのか。これが大人にとっての教育となる。空腹、排泄、体勢という生存欲求を満たすことは、別段、赤ちゃんに限った話ではなく、大人にとっても全く同様で、ここだけ、ちゃんと充足させられれば、大人の間の人間関係のこじれの半分は解決してしまうのではないかと思えるほどである。読書会に参加してくれた稽古仲間のひとりが、晴哉先生が育てようとした人間は、いわゆる同調圧力に沿いやすい日本人像とは逆をむいているとの意見には同感。次回の発表は、おそらく12月のどこかでやることになりそうです。
2018年11月3日土曜日
読書会報告
いま自分がやっていることを「教育」という切り口で話すことができたらいいのにと、ずっと思ってきた。所属している組織自体、「身体教育」を名乗っているわけで、これが教育でないはずはないのだが、それを自分の文脈で話すことはできないだろうか。全体像を語ろうとすれば、師匠の言葉の引用の羅列になってしまうことは日の目を見るより明らかなので、どれだけ稚拙であっても良いから、自分の言葉で話してみたいと思ってきた。稽古会に来ているYさんとその仲間が主宰されている「読書会」なるものに9月から参加しているのだが、その読書会で謳われている「卒論ゼミのように」という惹句に誘われて、自ら発表の場を設定してもらった。題してー自分でつけたのだがー「フレイレから身体教育へ」。
フレイレというのは、1960〜70年代に活動したブラジルの教育家で、代表作が「被抑圧者の教育学」。そもそも、Yさんと出会ったのも、フレイレつながりである。「おお、いまでもフレイレを読んでいる人がいるのだ」と知り、稽古にみえるたびに教育談義をしてきた。1973年ー計算して驚いたのだが、なんと45年前!ーアメリカの大学に入ったオリエンテーションのときの課題図書の一冊がこの「被抑圧者の教育学」ーPedagogy of the Oppressedで、未消化のものとして、僕の中にずっと居座り続けてきた本である。おそらく、この本抜きには、僕の教育へのこだわりは語れないし、いまなぜ、この稽古場という場所で「稽古」しているかも語れない。
時系列に私自身の「教育史」を話すところから始めたのだけれど、なかなかたいへん。ぼくよりずっと若い世代の集まりなので、時代背景の話で盛り上がり時間を取られたーそれくらい、時代の空気とリンクしているとも言える。結局、育児講座を経て稽古場がはじまるあたりまでで、息切れしてしまった。続きの回が必要。稽古会に来てくれている方も何名か参加してくれたのは有り難かった。
フレイレというのは、1960〜70年代に活動したブラジルの教育家で、代表作が「被抑圧者の教育学」。そもそも、Yさんと出会ったのも、フレイレつながりである。「おお、いまでもフレイレを読んでいる人がいるのだ」と知り、稽古にみえるたびに教育談義をしてきた。1973年ー計算して驚いたのだが、なんと45年前!ーアメリカの大学に入ったオリエンテーションのときの課題図書の一冊がこの「被抑圧者の教育学」ーPedagogy of the Oppressedで、未消化のものとして、僕の中にずっと居座り続けてきた本である。おそらく、この本抜きには、僕の教育へのこだわりは語れないし、いまなぜ、この稽古場という場所で「稽古」しているかも語れない。
時系列に私自身の「教育史」を話すところから始めたのだけれど、なかなかたいへん。ぼくよりずっと若い世代の集まりなので、時代背景の話で盛り上がり時間を取られたーそれくらい、時代の空気とリンクしているとも言える。結局、育児講座を経て稽古場がはじまるあたりまでで、息切れしてしまった。続きの回が必要。稽古会に来てくれている方も何名か参加してくれたのは有り難かった。
2018年11月2日金曜日
【業務連絡】ダンサーは消える
月末の京都稽古会で注文を受け付けた室野井洋子さんの本が届きました
等持院稽古場でも受け取り可能です
でなければ、月末の稽古会でのお渡しになります
数部だけですが余分に取り寄せましたので、希望者はお申し出ください
このサイトからも注文できます→http://m.gmobb.jp/odoru/
この本についての書評です(12/2 追記)
等持院稽古場でも受け取り可能です
でなければ、月末の稽古会でのお渡しになります
数部だけですが余分に取り寄せましたので、希望者はお申し出ください
このサイトからも注文できます→http://m.gmobb.jp/odoru/
この本についての書評です(12/2 追記)
2018年10月30日火曜日
2018年10月23日火曜日
publicとprivate
公私について考えている。英語で言えばpubicとprivateということになるのか。
一枚の絵画が来たことで、書斎として使っていたーつまりprivateな空間が、応接間ーpublicな空間に変身してしまった。ひとりで暮らしていた時は、privateな空間とはいえ、男子の更衣室としても使われていたから100パーセントprivateであったわけではない。二人暮らしを始めるにあたって、この書斎のprivate性は強くなるだろうと予想していたのに、事態はまったく逆方向に動きはじめた。実際、数日前、珍しく10名を超える稽古会をやった時には、参加者全てを書斎/応接間に招き入れ、そこが茶飲み場と化した。不思議な気分だ。この家に足を踏み入れたひとは、いったい僕らがどこで生活しているのか、見えてこないのではないか。日本家屋はもともと部屋が多機能に使われてきた。それでも、他人が足を踏み入れることのない空間は確保されていたのではないだろうか。この家の中に、そのような空間はない。僕らは、稽古場という小さなテーマパークのコスプレ住人になってしまったかのようである。
一枚の絵画が来たことで、書斎として使っていたーつまりprivateな空間が、応接間ーpublicな空間に変身してしまった。ひとりで暮らしていた時は、privateな空間とはいえ、男子の更衣室としても使われていたから100パーセントprivateであったわけではない。二人暮らしを始めるにあたって、この書斎のprivate性は強くなるだろうと予想していたのに、事態はまったく逆方向に動きはじめた。実際、数日前、珍しく10名を超える稽古会をやった時には、参加者全てを書斎/応接間に招き入れ、そこが茶飲み場と化した。不思議な気分だ。この家に足を踏み入れたひとは、いったい僕らがどこで生活しているのか、見えてこないのではないか。日本家屋はもともと部屋が多機能に使われてきた。それでも、他人が足を踏み入れることのない空間は確保されていたのではないだろうか。この家の中に、そのような空間はない。僕らは、稽古場という小さなテーマパークのコスプレ住人になってしまったかのようである。
2018年10月18日木曜日
新潟・奈良・京都
大仕事を終えたばかりのヒスイ職人である友人が糸魚川から訪ねてきてくれたのが先週の水曜日。拙宅に一泊した翌日、奈良に向かうというので便乗させてもらうことにした。江戸末期〜明治初期の時代を生きた松浦武四郎という冒険家、好事家が残した大首飾りを再現してほしいとの依頼を松浦ゆかりの博物館から受け、半年がかりで取り組んだという。松阪で納品を済ませ、その後、四国、中国を回り、大首飾り一般公開の日に合わせて、再び松坂に向かう途中、京都に寄ってくれた。半年にわたる集注と納品を終えた安堵感からなのか、やや老けた感を漂わせていたが、ことばを変えれば、「大人になったな〜」という印象。本人も一世一代の大仕事だったと言っていたが、まさにそのような仕事だったにちがいない。奈良東大寺の一角に法華堂(三月堂)というお寺があり、そのご本尊の頭飾りにヒスイが使われているという。不思議なことに、装飾品としてヒスイが使われたのは、この法華堂の仏像が最後で、以後、忽然と美術史からヒスイは消えてしまう。新しい文明の象徴としての仏教と、それ以前の土着的なるものとのせめぎ合いがあったのだろうか。はじめて訪れる法華堂は東大寺最古の建造物だそうで、建物も中に収められている仏像も素晴らしいものだった。天河神社に向かうという友人とは近鉄奈良駅で別れ、京都に帰ってきた。
佐渡で民宿を営む友人夫妻が泊めてほしいとの連絡をもらったのは二週間ほど前。奈良大倭に行くという。はじめて大倭紫陽花邑を訪ねたのは、もう四十年も前のことで、当時、FIWCという毎夏韓国でワークキャンプをやっているグループが大倭の中に交流(むすび)の家という建物をつくり、そこを拠点に活動していた。はじめて韓国に行ったのは、このワークキャンプを通してのことで、記録をたどってみると、なんと1976年のことではないか。そのうちに、野草社という東京にあった出版社が大倭に引っ越してきたり、今回の友人夫妻も越してきて大倭の老人施設の職員として働きはじめたり、80年代半ばまで、つまりわたしが京都から東京に引っ越すまで、ちょくちょく大倭に顔を出していた。ここの会館をお借りして何度か活元会もやった記憶がある。ただ、関東に居を移して以来、疎遠になってしまい、今回の大倭行きは30年ぶりのことになる。交流の家はまだ残っていました。大倭で会った翌日、友人夫妻が京都にやってきた。新潟〜関空の間をピーチが飛びはじめてから、関西に来やすくなったようで、それは、関西から新潟に行きやすくなったということでもある。民宿をはじめて30年ということだが、毎秋開催されている佐渡でのトライアスロン大会の様子、四季折々の食べ物の話を聞いていると、また佐渡に行きたくなってしまった。前回行ったのは、まだ娘が小さかった時のことだから、これまた30年近く前のことになる。
佐渡で民宿を営む友人夫妻が泊めてほしいとの連絡をもらったのは二週間ほど前。奈良大倭に行くという。はじめて大倭紫陽花邑を訪ねたのは、もう四十年も前のことで、当時、FIWCという毎夏韓国でワークキャンプをやっているグループが大倭の中に交流(むすび)の家という建物をつくり、そこを拠点に活動していた。はじめて韓国に行ったのは、このワークキャンプを通してのことで、記録をたどってみると、なんと1976年のことではないか。そのうちに、野草社という東京にあった出版社が大倭に引っ越してきたり、今回の友人夫妻も越してきて大倭の老人施設の職員として働きはじめたり、80年代半ばまで、つまりわたしが京都から東京に引っ越すまで、ちょくちょく大倭に顔を出していた。ここの会館をお借りして何度か活元会もやった記憶がある。ただ、関東に居を移して以来、疎遠になってしまい、今回の大倭行きは30年ぶりのことになる。交流の家はまだ残っていました。大倭で会った翌日、友人夫妻が京都にやってきた。新潟〜関空の間をピーチが飛びはじめてから、関西に来やすくなったようで、それは、関西から新潟に行きやすくなったということでもある。民宿をはじめて30年ということだが、毎秋開催されている佐渡でのトライアスロン大会の様子、四季折々の食べ物の話を聞いていると、また佐渡に行きたくなってしまった。前回行ったのは、まだ娘が小さかった時のことだから、これまた30年近く前のことになる。
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