8月、金沢で「石川合同稽古会」を開催します
日程は8月4日〜5日の二日間
今月末の京都稽古会で詳細をお知らせできると思います
2019年5月21日火曜日
2019年5月20日月曜日
CD&LP
うーん、なんだか物欲回復してきてる
演奏会に行くたびにCDやらLP買ってきている
写真左は”GOT LOST”というCD
ドイツ稽古会に参加されている旧知のピアニストがオペラ歌手のリサイタルに
伴奏のため京都に来るからと招待状を送ってくださった
前半は有名オペラからの歌曲、後半は現代声楽曲という二部構成
最後に演奏された"GOT LOST"という曲
これが圧巻だったのだ
しかも、知人のパートナーの作曲作品だという
写真右は空間現代の最新アルバム”PALM"
ポーランド人アーティストとコラボし、その演奏を、しかも無料でやるというので、
のこのこと「外」に出かけてきました
そこに置いてあったのが”PALM"
LPなんだよね
レコードプレイヤー手放して随分時間が経っている
デジタル音源もダウンロードできるそうだが、
ターンテーブルに載っけて聴きたくなるではないか
演奏会に行くたびにCDやらLP買ってきている
写真左は”GOT LOST”というCD
ドイツ稽古会に参加されている旧知のピアニストがオペラ歌手のリサイタルに
伴奏のため京都に来るからと招待状を送ってくださった
前半は有名オペラからの歌曲、後半は現代声楽曲という二部構成
最後に演奏された"GOT LOST"という曲
これが圧巻だったのだ
しかも、知人のパートナーの作曲作品だという
写真右は空間現代の最新アルバム”PALM"
ポーランド人アーティストとコラボし、その演奏を、しかも無料でやるというので、
のこのこと「外」に出かけてきました
そこに置いてあったのが”PALM"
LPなんだよね
レコードプレイヤー手放して随分時間が経っている
デジタル音源もダウンロードできるそうだが、
ターンテーブルに載っけて聴きたくなるではないか
2019年5月19日日曜日
自分さがし
自分さがしをはじめてしまった
昨年暮れ、参加している読書会で、私が整体に出会うまで、
そして、その後の展開を話す機会を得た
いってみれば、自分史の半分を語ったことになる
そこでふと思った
じゃあ、その前の自分
例えば、ラジオ少年としての自分は、どのように形成されてきたのか
ラジオ少年と整体オヤジはどのようにつながっているのか
最初に手に取ったのが「磁力と重力の発見」全3巻
筆者の山本義隆は東大全共闘の委員長として名前が知られている
というか、私など名前だけで、どのような仕事をしてきた人なのかまったく知らずにいた
1941年生まれだから、私とは、ぼぼ一回り上ということになる
「磁力と重力の発見」は、どのように、本来別々のものであった「科学」と「技術」が、
ヨーロッパにおいて「科学技術」として合体していったか、その経緯をギリシャの時代から辿っていく大著であり、すばらしい科学史の本でもある
3巻目にようやくたどり着いたものの、まだニュートンの章には行き着いてない
「磁力と重力の発見」がなかなか読み進まないのは、
同じ著者による他の書籍に寄り道しているせいである
たてつづけに、「福島の原発事故をめぐって」「近代日本一五〇年」「私の1960年代」
の三冊に手を出してしまった
私より一回り年上のぶん、1960年代(私の年齢でいえば、8歳から18歳)がどういう時代で、どういう空気を吸って人々は生きていたのか、大人の目で記述している
そこで、はじめて、なぜ、どのように僕がラジオ少年となっていったかが、腑に落ちたのだった
こうしてみると、自分というのは、ほんと「現象」だと思う
生まれ、親と交わり、近親者と交わり、他者と社会と時代の空気と交わりながら、
自分という輪郭がすこしづつ形成されていく
戦後教育の中で、ラジオ少年が生まれ、
そのもとには、明治政府の科学技術輸入政策があり、
そのもとには、16世紀文化革命がある
もちろん、みんなが僕のようなラジオ少年になったわけではない
それぞれが、それぞれの生まれ育った環境を取り込みながら「私」を形成していった
そう思うと、「なぜ」に終わりはない
あとしばらく、山本義隆氏の著作を地図として、「自分さがし」を続けてみようと思う
昨年暮れ、参加している読書会で、私が整体に出会うまで、
そして、その後の展開を話す機会を得た
いってみれば、自分史の半分を語ったことになる
そこでふと思った
じゃあ、その前の自分
例えば、ラジオ少年としての自分は、どのように形成されてきたのか
ラジオ少年と整体オヤジはどのようにつながっているのか
最初に手に取ったのが「磁力と重力の発見」全3巻
筆者の山本義隆は東大全共闘の委員長として名前が知られている
というか、私など名前だけで、どのような仕事をしてきた人なのかまったく知らずにいた
1941年生まれだから、私とは、ぼぼ一回り上ということになる
「磁力と重力の発見」は、どのように、本来別々のものであった「科学」と「技術」が、
ヨーロッパにおいて「科学技術」として合体していったか、その経緯をギリシャの時代から辿っていく大著であり、すばらしい科学史の本でもある
3巻目にようやくたどり着いたものの、まだニュートンの章には行き着いてない
「磁力と重力の発見」がなかなか読み進まないのは、
同じ著者による他の書籍に寄り道しているせいである
たてつづけに、「福島の原発事故をめぐって」「近代日本一五〇年」「私の1960年代」
の三冊に手を出してしまった
私より一回り年上のぶん、1960年代(私の年齢でいえば、8歳から18歳)がどういう時代で、どういう空気を吸って人々は生きていたのか、大人の目で記述している
そこで、はじめて、なぜ、どのように僕がラジオ少年となっていったかが、腑に落ちたのだった
こうしてみると、自分というのは、ほんと「現象」だと思う
生まれ、親と交わり、近親者と交わり、他者と社会と時代の空気と交わりながら、
自分という輪郭がすこしづつ形成されていく
戦後教育の中で、ラジオ少年が生まれ、
そのもとには、明治政府の科学技術輸入政策があり、
そのもとには、16世紀文化革命がある
もちろん、みんなが僕のようなラジオ少年になったわけではない
それぞれが、それぞれの生まれ育った環境を取り込みながら「私」を形成していった
そう思うと、「なぜ」に終わりはない
あとしばらく、山本義隆氏の著作を地図として、「自分さがし」を続けてみようと思う
2019年5月17日金曜日
2019年5月2日木曜日
2019年5月1日水曜日
目に入れても
目に入れても痛くない、という表現がある。小さなゴミひとつ目に入っただけで大騒ぎするのに、目に入れても痛くないだなんて…。先日、研修で東京に行った折、娘一家の住む佐倉まで足を伸ばした。孫たちー男の子ふたりーと遊んでいるうち、自分の眼差しが随分と柔らかくなっていることに気づいた。この迎え入れ具合。こういうのを、目に入れても痛くないというのか。あらためて、この日本語表現に深くうなづいた。娘だと、もう、目に入れると痛い。
年寄り三人で、「性と文化の革命」論議ーというより、ただのおしゃべり会をはじめた。下手すると、70年代はよかったな〜、という話に堕してしまいそうになるのだが、最後は教育談義に落ち着いて行くのが常ーといっても、まだ2回しかやってない。先日の会では、承認欲求という言葉への違和感という話題が、日本の学校教育における減点主義という話に転じていった。人は認められた方向に育っていく、というのが晴哉先生の潜在意識教育の要諦なのだが、減点主義の教育においては、ダメを認めることになってしまう。
せっかくの連休、目に入れても痛くないものを見に行きましょう。その前に、迎え入れの稽古をしましょう。
年寄り三人で、「性と文化の革命」論議ーというより、ただのおしゃべり会をはじめた。下手すると、70年代はよかったな〜、という話に堕してしまいそうになるのだが、最後は教育談義に落ち着いて行くのが常ーといっても、まだ2回しかやってない。先日の会では、承認欲求という言葉への違和感という話題が、日本の学校教育における減点主義という話に転じていった。人は認められた方向に育っていく、というのが晴哉先生の潜在意識教育の要諦なのだが、減点主義の教育においては、ダメを認めることになってしまう。
せっかくの連休、目に入れても痛くないものを見に行きましょう。その前に、迎え入れの稽古をしましょう。
登録:
コメント (Atom)