ボディワークの意味がわからない。
ソマティックになると、もっとわからない。
片桐ユズルとの縁で、ソマティック心理学協会というグループが主催する会で稽古をやってきた。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で謎のままである。
片桐ユズルが僕を呼んだのは、「整体は日本を代表するソマティック」なのに、「引っ込み思案で、宣伝もしないし、なかなか外に出てこない人たち」だから、これを機に、カミングアウトした方がよい、というユズルさんなりの好意の表現でもある。会そのものは楽しかったし、真面目な人たちの集まりだな、ということはよくわかった。でも、ソマティックもボディワークも、僕の中で依然謎のままである。近くに居るらしいのだけれど、薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たちという印象なのだ。
片桐ユズルに話を聞く機会は最近多い。
得体の知れないソマティック関係者のなかで、アイコン的な存在になっている風もある。本人も、モテ期に入っていると自覚しているらしい。オルダス・ハクスリーが著書の中で、「アレキサンダーテクニック(AT)は素晴らしいといっていたから、ぼくはATの勉強をはじめた」という説明は非常にわかりやすい。このあたりが、日本におけるボディワークやソマティックの流れを理解する上で鍵になりそうだ。ヒューマンポテンシャルムーブメントがあって、エサレンがあって、oshoがいて...みたいな流れなのか。
薄い膜一枚隔てて違う世界に住んでいる人たち...。
なんなんだろうね、この違和感は。
2019年6月19日水曜日
とりのこようし
ソマティック関西フォーラムめがけて準備中
きっとアウェイだし、どういう流れで話するか考えておかねばと、
紙を継ぎ足しながらメモを書きつらねていると、
「とりのこようし」みたいね〜、と家人が声をかけてくる
なに、とりのこようし? いったい何だそれはと訊きかえすと、
なんだ、そんなことも知らないのかという風情で、模造紙のことよ、との返事
え、そんな呼び方聞いたこともない
小学校のグループ学習の時はね、云々という話からすると、世代の違いかもしれない
神戸、愛媛では、という話を聞くと、地域差のようにも思える
どうやら、「鳥の子用紙」、愛媛香川ローカルで流通している言葉らしい
机をかく(=運ぶ)、という表現もあるそうな
きっとアウェイだし、どういう流れで話するか考えておかねばと、
紙を継ぎ足しながらメモを書きつらねていると、
「とりのこようし」みたいね〜、と家人が声をかけてくる
なに、とりのこようし? いったい何だそれはと訊きかえすと、
なんだ、そんなことも知らないのかという風情で、模造紙のことよ、との返事
え、そんな呼び方聞いたこともない
小学校のグループ学習の時はね、云々という話からすると、世代の違いかもしれない
神戸、愛媛では、という話を聞くと、地域差のようにも思える
どうやら、「鳥の子用紙」、愛媛香川ローカルで流通している言葉らしい
机をかく(=運ぶ)、という表現もあるそうな
2019年6月18日火曜日
愉気
新しい命の誕生を人はずっと祝福をもって迎えたのではないか
逝ってしまった命を人はずっと悼みつつ見送ってきたのではないか
こうして、ずっと人は命をつないできたのではないか
愉気について考えている
愉気を受ける経験、それが整体の核となっている
これは確信を持っていえる
では、愉気を受けているとき、あるいは愉気を行なっているとき、
僕らはどのような感覚経験をしているのだろう
なぜ、愉気には修練が必要になるのだろう
太古の昔から風は吹いていた・・・
晴哉先生は、風という言葉を用いて、なにかを伝えようとしている
そもそも僕は愉気を経験したことがあるのだろうか
妻を見送ったときの経験が愉気だったのだろうか
それとも、娘が出産したあとの風景なのか
世界を、他者を、肯定的に迎え入れられる能力
これこそが、整体において僕らが体力と呼んでいるものだ
そして、その能力を育てるものとして愉気がある
世界は生きるに足りる愉しい場所である、と
ここから、なぜカタなのか、という問題に踏み入っていくことになる
逝ってしまった命を人はずっと悼みつつ見送ってきたのではないか
こうして、ずっと人は命をつないできたのではないか
愉気について考えている
愉気を受ける経験、それが整体の核となっている
これは確信を持っていえる
では、愉気を受けているとき、あるいは愉気を行なっているとき、
僕らはどのような感覚経験をしているのだろう
なぜ、愉気には修練が必要になるのだろう
太古の昔から風は吹いていた・・・
晴哉先生は、風という言葉を用いて、なにかを伝えようとしている
そもそも僕は愉気を経験したことがあるのだろうか
妻を見送ったときの経験が愉気だったのだろうか
それとも、娘が出産したあとの風景なのか
世界を、他者を、肯定的に迎え入れられる能力
これこそが、整体において僕らが体力と呼んでいるものだ
そして、その能力を育てるものとして愉気がある
世界は生きるに足りる愉しい場所である、と
ここから、なぜカタなのか、という問題に踏み入っていくことになる
2019年6月16日日曜日
2019年6月14日金曜日
専業主婦論争
専業主婦なりたいとおっしゃる
えっ、でも主婦力、私の方が高いんですけど
ご飯用意するというので待っていたら
専業主婦って、高度成長期に出現した特異な現象なのね、と講義しても、聞く耳を持たない
えっ、でも主婦力、私の方が高いんですけど
ご飯用意するというので待っていたら
パンと野菜と豆とチーズがお皿の上に並んでいた
これらは素材ではないでしょうか?
と疑念を素直に申し上げると、これで私は十分だとおっしゃる
これらは素材ではないでしょうか?
と疑念を素直に申し上げると、これで私は十分だとおっしゃる
たしかに...
でも、僕がドレッシング作って野菜にかけたら、
美味しいね〜と言ってむしゃむしゃ食べていたのはどなた
洗濯、アイロン掛け、お掃除はほどよく分担
料理は私に一日の長ありー料理は買物からはじまるのです
繕い物はお任せします
でも、僕がドレッシング作って野菜にかけたら、
美味しいね〜と言ってむしゃむしゃ食べていたのはどなた
洗濯、アイロン掛け、お掃除はほどよく分担
料理は私に一日の長ありー料理は買物からはじまるのです
繕い物はお任せします
専業主婦って、高度成長期に出現した特異な現象なのね、と講義しても、聞く耳を持たない
でも、家事が主婦の専権事項であるという考えかたは到底受け入れられないし、
この愉しみを奪おうとする方とは一緒に暮らせない
この愉しみを奪おうとする方とは一緒に暮らせない
結局、一緒に居るだけでいいよ、という一点で妥協
ようやく歯車が噛み合って前に進みはじめたところです
2019年6月11日火曜日
2019年6月5日水曜日
文音
連句会に出席したら知恵熱が出たという話は書いた。
来週が2回目の参加になるのだけれど、ちょっと出るのが怖い。
一度出席しただけなのに審査なしにメンバーに加えてもらえたようで、初心者対象の「文音」をやるのでどうですかとお誘いのメールが先生から届いた。「文音」とは手紙で歌仙を巻くこと。それを今風にメールを介してやるらしい。前句にたいして、長句なり短句なり三句を先生に送り、その中から一句、必要であれば一直と呼ばれている添削を加えて句を確定させていくという手順。なぜこの句を選んだか、なぜここを直したのか、解説とともに先生からメールが返ってくるので、連句初心者には実に勉強になる。
さて一巡目は随分ゆったりしていたものの、二巡目に入ると急に速度があがって、あっという間に順番が回ってきた。さて、僕のところに届いたのが「ダリの絵のゆらりと溶くる針二本」という長句。この句に短句七七をつけなけらばならない。季節はなく雑の句でとある。針二本から「箸」を連想。「左手に椀右手には箸」という句がまず浮かぶ。ゆらゆら、溶けるに棹差すように、体言で止めてみる。二つ目は、「豆つまみあげ煮加減をみる」。これも箸からの連想。うーん、箸から逃れられない。悶々としているところに小杉さんの訃報が届いた。こうなると連句どころではなくなってしまう。でも、頭の片隅に宿題の影が残る。
流れに棹ささないで、もっと流してしまおう。こうしてできたのが、「笹舟に乗せ友を見送る」という短句。最初は友でなく「御霊」としたのだけれど、これではお盆の灯籠流しのようで季節感がでてしまう。最終的に前掲二句と併せ、「笹舟に乗る友に手を振り」として先生に送った。早速、先生からの返信があった。笹舟の句を一直し、次の長句が添えられていた。唸った。
笹舟に乗る友へ手を振り
そろそろと亀仏心の貌を出す
僕の中では、笹舟に乗っているのは小杉さんであり小杉さんの御霊なのだけれど、それを「仏心」で受けてくださっているのだ。連句おそるべし。
遺影の中の小杉さんはVサインしていた。最後までやるな〜。
来週が2回目の参加になるのだけれど、ちょっと出るのが怖い。
一度出席しただけなのに審査なしにメンバーに加えてもらえたようで、初心者対象の「文音」をやるのでどうですかとお誘いのメールが先生から届いた。「文音」とは手紙で歌仙を巻くこと。それを今風にメールを介してやるらしい。前句にたいして、長句なり短句なり三句を先生に送り、その中から一句、必要であれば一直と呼ばれている添削を加えて句を確定させていくという手順。なぜこの句を選んだか、なぜここを直したのか、解説とともに先生からメールが返ってくるので、連句初心者には実に勉強になる。
さて一巡目は随分ゆったりしていたものの、二巡目に入ると急に速度があがって、あっという間に順番が回ってきた。さて、僕のところに届いたのが「ダリの絵のゆらりと溶くる針二本」という長句。この句に短句七七をつけなけらばならない。季節はなく雑の句でとある。針二本から「箸」を連想。「左手に椀右手には箸」という句がまず浮かぶ。ゆらゆら、溶けるに棹差すように、体言で止めてみる。二つ目は、「豆つまみあげ煮加減をみる」。これも箸からの連想。うーん、箸から逃れられない。悶々としているところに小杉さんの訃報が届いた。こうなると連句どころではなくなってしまう。でも、頭の片隅に宿題の影が残る。
流れに棹ささないで、もっと流してしまおう。こうしてできたのが、「笹舟に乗せ友を見送る」という短句。最初は友でなく「御霊」としたのだけれど、これではお盆の灯籠流しのようで季節感がでてしまう。最終的に前掲二句と併せ、「笹舟に乗る友に手を振り」として先生に送った。早速、先生からの返信があった。笹舟の句を一直し、次の長句が添えられていた。唸った。
笹舟に乗る友へ手を振り
そろそろと亀仏心の貌を出す
僕の中では、笹舟に乗っているのは小杉さんであり小杉さんの御霊なのだけれど、それを「仏心」で受けてくださっているのだ。連句おそるべし。
遺影の中の小杉さんはVサインしていた。最後までやるな〜。
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