2022年4月19日火曜日

桜餅

桜の季節はあっという間に終わってしまった。
今年くらい桜餅を食った年はない。いや、和菓子全般よく食べている。
地元の長五郎餅を筆頭に、三平餅、笹屋守栄、亀屋重久、老松、仙太郎とつづき、最後は虎屋。いや、石川で寺井の和菓子屋さんの桜餅もいただいたから、都合8種類の桜餅を食べたことになる。どのお店の桜餅も美味しいのだが、基準はやはり長五郎餅か。
もう、柏餅の季節が始まった。

2022年4月8日金曜日

パラレルワールド

 連句仲間三人で歌仙をはじめた。仲間といっても、連句歴は僕が一番浅いから、年下の姐御二人から飛んでくるボールをぜいぜい言いながら打ち返している状態。時節柄メールをやりとりして巻を進めている。前の人から送られてきた三句のうち一句を選び、その選んだ句に付けの候補三句をつくり、次の人に回していく。こうしてあみだくじを辿るように一巻の歌仙が進行していく。作った三句のうち二句は反故として捨てられて顧みられることはない。今回、自分用に、この反故も一緒に並べて記録している。なぜこの句が採られ他の句は捨てられたのか。

 自分が好きな句を選ぶとは限らない。いくら気に入っても、歌仙のルールから外れるものは捨てざるをえない。前句との繋がりで、ちょっと離れ過ぎているな、とか、近すぎるとか、好きであっても捨てざるをえないものも出てくる。基準になるのはぴったり感、これしかない。つくる側からすると、苦し紛れでつくったものが採られ、えー、これ採っちゃったの、ということもある。

 連句って、ほとんど人生のアナロジーではないか。岐路はたくさんあった。なぜそのとき、そのような道を選んだのか、選ぶしかなかったのか。はたまた選ばれたのか。数限りない岐路を経て現在にたどりついているのだ。そう思えば、選ばれなかった反故句たちにも愛着が湧いてくる。連句ってパラレルワールド。そして人生もまたパラレルワールド。選ばれなかったもうひとつの人生を遊ぶことが連句の醍醐味なのかもしれない。

2022年4月4日月曜日

内観コーチング研究所

 丸2日外に出てなかったので、妻と二人、近所のイズミヤまで散歩することにした。妻が完全着物生活に入って半月、ずいぶん慣れてきた様子だが、歩き方が下手だ。手を繋いで歩きながら、膝をゆるめて、膝頭をちいさくして、腕と胴体を切り離すように、とアドバイスしていくうちに、下駄の音がどんどん小さくなり、ひょこひょこ跳び歩く感じが消えていく。内股同士が擦れる感じになって、お尻も小さくなってくるよねと本人も納得。そうか、池田くんの「からだ育て研究所京都」に倣って、飯の種に自前の研究所を立ち上げればいいんだ。即座に「内観コーチング研究所」という名前が降りてきた。メニューは手を繋いで先生とお散歩。30分3000円でどうだ。美女と手を繋いで散歩する。なんという役得。いやそれとも、介護を受けている老人に見られるのが関の山なのか。あと3日早く思いついていれば、「角南、身体教育研究所を離脱、新研究所立ち上げ!」と東スポの見出しに負けない素晴らしいエイプリルフールネタになったのに、と悔しがる。


 2割引きで買ってきたアップルパイを頬張り、おい、皮ばっかりでリンゴが少ないぞと悪態をつきながら、来年のエイプリフール用にささっと書いた前段の文章を読み返してみた。これでは、読んだ人がどこに食いついてくるか予想できる只の惚気文でしかない。しかも、重大な欠陥があることを発見。美女だけを相手にできるわけがない。来る人は拒まずだから、どんな年齢、性別、性指向に対応する覚悟がなければ、このプロジェクトをはじめるわけにはいかない。え、覚悟? そう、男同士で手をつないで外を歩くとなると覚悟がいる。美女だけを思い浮かべ、このことに気づかなかった僕はアホである。というか、偏った性意識がすでに露呈している。そう考えていくと、逆に稽古会という場の特異性が前景化してくる。稽古会で組む相手は男女いろいろ。というか、あまり相手が男性か女性か意識したことがない。稽古するとは触れることでもあるだが、稽古をしている限り、自分の中で性ということが意識されることがない。


 ところが、稽古場から一歩外に出れば、人の目を気にする、あるいは縛られている、つまり言い訳をしている私が出現するのだ。それなら、自動車教習中の車が「教習中」という看板を掲げて街を走っているように、「稽古中」というタスキをかけて街中を散歩すればよいかというと、これはもっと恥ずかしいだろう。稽古会で追究しているのは、どうすれば「カタをもってひとにふれられるか」ということだ。カタに入るとは、私を極小化していくということで、当然、性的指向といったものも極小化されていく。稽古場という様式もまたひとつのカタである。ふれるという行為はもともと性というものと結びつけられ易いものだ。そのような眼差しで見られると、そのような身体が浮き出てくる。そういう構造にある。逆にいうと、性的な眼差しから離脱する、自由になるヒントもきっと「カタ」のなかにあるに違いない。と、ここまで書いて、手を繋いで外を歩く覚悟が固まってきた。さあ来い。いや来ないかも。どっちにしたって、オレたちはマイノリティーではないか。


 もし「内観コーチング研究所」を立ち上げようという方いらっしゃれば、事前にご連絡ください。顧問料を申し受けます。

2022年3月31日木曜日

3月の読書

異世界の歩き方 地球の歩き方編集室 Gakken 2022
言葉を失ったあとで* 信田さよ子・上間陽子 筑摩書房 2021
月3万円ビジネス* 藤村靖之 晶文社 2020
必携!四国お遍路バイブル* 横山良一 集英社新書 2006
山頭火と四国遍路* 横山良一 平凡社コロナブックス 2003

2022年3月27日日曜日

春だ
桜も一気に開花
京都に人が戻ってきた
それでも、ピーク時の三分の一くらいだろうか
混み混みはいやだけど、街が活気を取り戻してくるのは嬉しい
客人がやってくるというので久しぶりに街中に出る
イノダ本店で待ち合わせ、一緒にブランチ
錦市場を通り抜け、MARUZENを覗き、鴨川に出る
まるで観光客として京都を歩いているようだ

MARUZENの平積み台で妙な本を発見
地球の歩き方x月刊ムーだって
この企画を思いついた人天才だね
つい財布の紐が弛んでしまった




2022年3月23日水曜日

デジャヴ

机代わりに使っているコタツの上が乱雑になっている
このところ連句の宿題が複数回ってきていて、日夜、呻吟しているのだ
季寄せに下書き用の紙とペンの類
おまけに、遍路関連の書籍
この散らかった風景どっかでみたことがある
このデジャヴ感
そう、晩年の父の部屋と瓜ふたつではないか
訪ねていく度に、この混雑なんとかしろよ
などと心のなかでつぶやいていた
あら、同じ穴の狢だったとは

2022年3月16日水曜日

韓日ダンスフェスティバル1995

韓日ダンスフェスティバル1995のDVDが回ってきた。
1995年、つまり27年前の映像。
室野井洋子さん、森(竹平)陽子さん、ふたりとも美しい。
楽屋でカメラに収まっている松井くん、榎田くんのハンサムぶりに驚愕。
え、こんなに男前だったっけ。

近々、等持院稽古場で上映会やります。

↓  当時の文章が出てきたので蔵出ししておきます。


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あざみ野通信 071 1995.11.13
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 韓国公演のための稽古をやっている最中に、何度か稽古場に足を踏み入れたことがある。なんとも形容しがたい空間がそこにあった。舞踏の室野井洋子さんと日舞の森陽子さんが一緒に踊る。こういう組み合わせは稽古場以外では考えられない。ダン先生曰く、室野井さんの踊りは、客体を消し、内観的身体だけを動かすもの、一方の森さんは逆に内観的身体を消し、客体だけを動かしていく踊りだと。僕が最初に稽古場で感じた、この形容しがたい空間はソウルでも出現した。そういう意味では、この公演は大成功と呼べるのではないか。踊りというものを「自己表現」として扱っている公演者が多かった中、稽古場組の出し物は異質だったと思う。「感応を用いた空間芸術」とでも呼ぶべきものだ。人は、その空間に形成される空気を感じることによってのみ、それを味わうことができる。

 室野井さんに「表現する自分というものを意識していますか」と訊いてみた。「昔は、あったかもしれないけれど、今はない。料理をつくるのと同じ感覚で踊っています。下拵えをして、それを横に置いて、次の作業に移り、といった感じです」なかなか説得力のある答えであった。ソウルでの公演を見ているとき、「室野井さんはプロだなあ」と、ふと思った。なにをもってしてプロというのか、そこのところははっきり意識しなかったが、あとで考えると、舞台の上で何が起ころうと、すべて自分一人で背負ってやるという心意気、覚悟、そんなものを室野井さんの姿から感じたらしい。かといって、気負いとは違う種類のものだ。

(1995/11/1記)