2022年3月14日月曜日

お遍路見習い

目覚ましを二時間早め遍路旅

朝6時に起き出して、京都駅発7時50分の高松行きの高速バスに乗ったら、11時には一番札所である霊山寺に到着。門前で遍路用品を買い求め、お参りの手順をお店の人に一通り教えていただき、そこから見習いお遍路開始。般若心経読むなんていつぶりだろう。納経帳にも朱印を捺していただく。二番札所に向かう途中、大麻比古神社の案内を見て、阿波の国にご挨拶と北に向かって歩く。同じ道を戻り、車道沿いに極楽寺へ。さらにこんどは、旧街道を三番札所の金泉寺を目指す。代わり映えのしない、昭和の空気を残したひなびた道。向こうから、スタスタと歩いてくる遍路姿の中年男性とすれ違う。ということは、逆打ちで回っているのだろうか。旧街道を歩きながら、「先を急ぐことは遍路の本分ではない」ことに気づく。

グーグルに道訊ききながら遍路行

金泉寺到着。ここからJRで徳島駅経由高速バスで京都に戻るつもりにしていたのだが、時計を見ると、まだ2時半。あと二つくらい回れそうと、最終便の高速バスを予約してから腰を上げる。四番札所の大日寺に向かう道は途中から山の中をたどる遍路道となる。登り坂ということもあり、思ったより時間がかかる。道標の距離が示す距離が減らない。大日寺に着いた頃には空気が冷たくなりはじめ夕方の気配。徳島駅行きのバスの時間が気になり始める。慌ただしく読経を済ませ、納経帳に御朱印をいただき、ちょっと急ぎ足でーすでに遍路の本分を失念ー五番札所の地蔵寺を目指す。下り道。地蔵寺にて今回のお遍路行はおしまい。次回来るときは、この地蔵寺からはじめることになる。羅漢というバス停から徳島行きのバスに乗車。

日帰り遍路なんてもったいない。
でも、とにもかくにも、最初の一歩を踏み出した。

冒頭の句、連句仲間三人ではじめた三吟の発句に取り上げていただいた。


2022年3月8日火曜日

脱液晶画面

 久しぶりに総武線に乗った。ひと昔前なら、紙に印刷された広告が掲示されていた窓上の場所に液晶モニタが埋め込まれている。しかも三画面。数年前までなら、ドア上にあるだけだった液晶モニタが、車両全体に広がっている。つり革につかまって立っている乗客からすると否応なしに視線が広告の流れているモニタに向かわざるを得ない。紙の広告であれば、目を閉じれば消える。しかし、液晶画面の上で点滅する広告は目を閉じても消えない。これでは逃げ場がない。ちょっと吐き気がしてきた。

 連れ合いが脱携帯電話を試みている。携帯は持ち歩かない。家にいるときも電源は入れない。連絡手段は家でんにする。携帯電話が普及したのは、ここ20年のことだから、時計の針をその時間巻き戻そうというわけだ。はじめて一週間ばかりたつが、「時間が増えた」とおっしゃる。たしかにそうかもしれない。一番影響を受けているのは私だ。彼女とのLINEでテキストメッセージをやりとりすることが消え、家でんを介しての音声通話と台所のメモ書きが伝言の手段となった。僕自身の時間も増えた。

 総武線の電車の中で感じた不快感は、キューブリックの「時計じかけのオレンジ」の一場面を思い起こさせる。そう、瞼を無理矢理こじ開けられ、不愉快な映像に晒される矯正教育のシーンである。朝起きては、iPadを開けてメールをチェックする。大半は、無料登録したサイトからのメルマガ。これらをゴミ箱に入れる。ニュースアプリを開けて、最新ニュースを見ているうちに、有名人のゴシップ記事に誘導されていたりする。これではまるで、自ら進んで、総武線の広告モニタに見入っているようなものではないか。

 デジタル機器との付き合いかたを検証中。

2022年3月5日土曜日

聴く稽古

月末三日間の稽古は「聴く」稽古でもある。おそらく稽古時間の半分は講話に充てられているから、その時間、僕はひたすらかすかに聴こえてくる師匠の声に耳を傾ける。基本、師匠の声は小さい。ピンマイクとアンプで拡大された声もなかなか僕には届かない。音のかたまりとしてやってきても、それが言葉として像を結ばない。断片的に聴こえてくる単語から、何について話されているのか類推していくしかない。まるで、圧倒的に語彙の少ない人間が外国語の海に放り出されたようなものである。僕の中にある三十年分の膨大なデータベースに照らし合わせて、内容を察そうとしていくのだが、無力である。もう、師匠の話は十分聞いたから、もういいではないかという兆なのだろうか。それでも三日間出ると、新しい発見があり、実際、身体も変わっていくから、苦行とはいえ、この稽古会を外すわけにはいかない。そもそも、この稽古会に出るために居を京都に移したのだから。かすかに聴こえてくる声をBGMに妄想の世界に入っていくことも多い。でも、全体的な集注感だけは増している。これもまたたしかなのだ。

2022年2月28日月曜日

2月の読書

菌の声を聴け* 渡邉格・麻里子 ミシマ社 2021
アーモンド* ソン・ウォンビョン 祥伝社 2019
くらやみに、馬といる 河田桟 カディブックス 2019
カーテンコール* 加納明子 新潮社 2017
世界のおすもうさん* 和田静香・金井真紀 岩波書店 2012
ポルトガル-小さな街物語* 丹田いづみ JTB 2002

2022年2月23日水曜日

千の抽斗(ひきだし)

ふたむかし前のことだ。日曜日に本部稽古場でやっていた初心者向けの稽古会に顔を出したことがある。そのぬるさに驚いた。動法をすっ飛ばして稽古している。「放し飼いにしている」と師匠は笑っていたが、動法なしの内観なんて宝の持ち腐れではないかと憤慨した覚えがある。

自分がたどった道筋をなぞるように教えていこうというのは、教える者の習性みたいなものかもしれない。まず動法ありき。動法なき稽古場はありえない。これは今でも正しい。基本はすり足であり、坐法であり臥法である。だが、それをいっと最初に持ってくる必然性があるのかどうか、今となっては、ちょっとあやしい。

千の抽斗があったとしても、普段使いしているものは十にすぎず、この十個を組み合わせながら日々稽古していることに愕然とする。人に適わせてふさわしい抽斗を開ければいいものを、知らぬ間に開ける抽斗の数が限られてきて、開ける順番も自分がたどった道筋をなぞろうとしている。ひとつの稽古を深めるといえば聞こえはいいが、その実、習慣性というループにはまっている可能性も大いにある。

せっかく千の抽斗があるのだから、組み合わせはもっともっと自由であるはずなのに。

2022年2月7日月曜日

千の技法

三十年の間に千の技法がうまれ、千通りの体験をして、千の新しい語彙を得てきた。それらは野口晴哉の技法と紐づけられ、整体の世界が再構成、再定義され、その世界が古典世界と響き合っていることに驚き、そのような感覚世界と言語空間の中に踏み入り暮らしていくことを僕らは「整体」と呼ぶようになった。

2022年2月1日火曜日

20冊の本

先月の石川。読む本がなくなって駅ナカの書店を覗いた。北海道の地方都市の小さな書店主がはじめた著者と読者をつなぐ「一万円選書」(岩田徹 ポプラ新書)という挑戦について書かれた新書を見つけた。滅法面白い。1ヶ月百名限定で、その人が読んだらよさそうな本を一万円分店主自ら選び、異存がなければ買ってもらうという試み。事前に調査票(選書カルテと呼んでいる)を出してもらい、それをもとに本を選んでいく。店主が提示する本の数々。びっくりするくらい、僕のアンテナに引っかかったことがないタイトルが並ぶ。一年百冊x60年として6千冊くらいの本は読んできたはずだけど、世に出回っている書籍の数からいえば、ほんと氷山の一角どころか、砂漠の数粒の砂に過ぎないことがわかる。「これまで読んできた本の中で印象に残っている本をベスト20を教えてください」という設問がある。さて僕なら、どの本を選ぶだろうと、わが読書歴を振り返ってみるのだが、20冊挙げるというのが、とんでもなく難しいことに気づく。僕など、読む端から忘却していく人なので、覚えていない。子供の頃から時系列に思い出そうとするのだが、5冊しかでてこない。1) 地底旅行(ベルヌ)、2) コンチキ号漂流記(ヘイエルダール)、3) なんでも見てやろう(小田実)、4) 荘子、ときて、いきなり直近で読んだ 5) 分解の哲学(藤原辰史)に飛んでしまう。20代以降、いったいどんな本を読んできたのだろう。この「一万円選書」、ブックガイドとしても秀逸。いつか、一万円選書、お願いしてみたい。まずは、ベスト20を選んでおかねば。