これまでやってきた「学びについて考える」のメンバー3名で、イリイチの「エネルギーと公正」を読みはじめることにしました。初回は10月25日(月)18時30分、等持院稽古場での開催です。興味のある方は角南(dohokids@gmail.com)までご連絡ください。
2021年10月17日日曜日
かわら版デジタル化プロジェクト
今年初めにはじめた「かわら版」デジタル化プロジェクトも第3コーナーに入ってきた。保存状態の良い90年代から時代を遡るようにデジタル化してきて、それが一段落したので、こんどは最初期から現在に向かって作業を進めることにした。創刊号は1967年発行。なんと半世紀以上前になる。手元にある資料の八割がたのデジタル化が済んだことになる。手順については、基本「デジタルアーカイブの作り方」に沿って作業している。まず、iPhoneのカメラで一年分(100枚弱)を撮影。iPhoneの写真アプリで傾き、歪み調整、サイズの調整をしたうえで、写真をairdropでMacBook airに転送。MBAのプレビューアプリで、色合い、露出、シャドウ等6種類くらいをスライドバーで調整。一年分を一つのPDFで書き出すという作業をしていく。ここまで1000頁分くらい取り込んできたことになる。なんとか年内には完了したい。ただ、資料としてより完成度を上げるためには、1973〜1979年(56号〜104号)の欠落部分を手に入れる必要がある。もし、段ボールの奥に、この時期の「かわら版」を発見された方はご連絡いただきたい。
2021年10月10日日曜日
稽古場風景
等持院稽古場が個人教授専門道場になって久しい。集団稽古はほぼゼロで個人教授個別稽古に明け暮れている。もともと、自宅兼稽古場という制約のなかではじめたこともあるのだけれど、この稽古場に「会員のための公共の場」という感覚を育ててこなかった。どちらかというと、稽古に来ている会員は「客」で亭主である私がもてなすという、お茶会に近いような様式が定着してしまった。ことに、ここ一年半、緊急事態に備え、いつでも動けるような日程を組んできたから、ますます個人稽古道場化が進んでしまった。集団稽古によって育つものー他者という師を得るという意味でーもいっぱいあるので、はたしてこのままでよいのかどうか、ちょっと悩ましい。
ひとりあたりの滞在時間が長いのが特徴。最初にお茶が出てくる稽古場ってそうはないだろう。お茶飲みながら世間話を20分。そこから稽古室に入って個人教授を小一時間。終わってからまたお茶を飲む。ときにはお茶菓子まで出てくる。これだけで大体一人一時間半から二時間コースとなる。稽古+操法コースとなると、間に休憩も入れるから、三時間コースになる場合もある。
こんな風景をみたら、ひとり45分枠で個別稽古をしている白山稽古会のひとたちには怒られてしまいそうだ。でも、集団の稽古があって、また個人教授・個別稽古があるというのが、稽古場のスタンダード。白山稽古会の方が普通で、等持院の風景の方が例外なのです。逆に、 ここをホームグラウンドにしている人がが他所の稽古場を訪ねていったら、その厳しさに戸惑ってしまうかもしれない。それだけは警告しておきます。
2021年10月9日土曜日
モバイル
うかつなことに、このブログを見にきている人の7割近くが、スマホ利用者であることに気づいたのは最近のこと。
つまり、こんな風な画面で表示されているわけだ。
パソコンやタブレット画面では右側に表示されている稽古会情報が表示されないことになる。これは不便、というか、肝腎の稽古会日程などにたどり着けない可能性がある。こういう場合は、最初の画面の「ホーム」(赤矢印)を押すと、下側の画面が展開されるようになっている。スマホ遣いの人たちには自明のことなのかもしれないけれど、最近、私の周りに増えてきた高齢スマホ初心者のために、ご紹介しておきます。
2021年9月30日木曜日
2021年9月28日火曜日
からむしのこえ
国立歴史民俗博物館の映像資料、映画「からむしのこえ」のDVDを借りられることになりました。下記の日程で等持院稽古場で上映します。会費無料。狭い空間なので定員制(max7名)とします。要予約。
9/27 (月) 18-20 (終了)
9/30 (木) 17-19
「からむしのこえ」という映画の存在を教えてくれたのは、僕が京都に舞い戻ってほどなく、「せうそこ」というイベントを企画してくれたIさんで、千葉にある歴史民俗博物館(歴博)所蔵のDVDを僕が窓口となって借りてほしいというリクエストを通してだった。歴博は娘が住んでいる佐倉市にあり、実際、何度もその展示を見るために足を運んだので馴染みはある。役所相手の交渉も昔とった杵柄で不得手ではない。そんなことで、「からむし」がなんなのか、よく理解してないまま、歴博に連絡し、「身体教育研究所」という名称も活用して、勿論、活動内容もちゃんと説明して、無事、このDVDを借りられる運びになった。
この文章は、等持院で開催された一回目の上映会を終えた段階で書いている。からむし(イラクサ科の多年草で、苧麻・ちょまとも言わる)が、動力をたのむことなく布になっていく工程に見入ってしまった。まず、からむしを育てるための準動の段階があり、そして実際にからむしを育る時期があり、それを収穫する。そして、そこから繊維を取り出し、糸にして、織っていくという屋内での作業がはじまる。この年間を通しての一連の流れを記録した貴重な映像。とにかく時間の流れ方がちがう。映像の最後の方になって、からむしの製品を売っているお店のある東京の風景が映し出されるのだけれど、福島・昭和村との乖離に目眩しそうになった。(9/28)
2021年9月12日日曜日
コロナと速度 2
「エネルギーと公正」が出版された1974年は僕にとっては特別の年で、元旦をサンタフェで迎え大晦日をケララで過ごすという、人生最大の移動をした一年だった。インドで何ヶ月か過ごすうち、なぜか、僕は一生自家用車に乗ることはないだろうという確信を持ったのだった。20代後半、教習所に通って普通免許は取得したものの、いっときバイクに乗ってた時期をのぞき自家用車を持つことなく、今に至っている。おそらく、この先も自家用車とは無縁だろう。その分、関東で暮らしていた28年間、電車利用通勤者として、電鉄会社への隷属を強いられていたこともたしかである。
さて、「エネルギーと公正」である。
イリイチの文章には、頻繁に「限界」「境界」という単語が出てくる。「一人あたりにエネルギー量がある境界以下ならば、モーターは社会の進歩のための条件を改善する」(p.16)。「わたしが説きたいのは、一人あたりのエネルギーがある適正な水準をこえると、いかなる社会もその政治態勢や文化的環境が必然的に退廃するということなのである」(p.17)。では、イリイチが考えているエネルギー量の境界ー交通でいえば速度はどのあたりにあるのかというと、「公共の運輸機関の速度が時速15マイル(24キロ)をこえて以来、公正が低下し、時間と空間の不足が顕著になった」(p.23)と書いているように、人が自転車で移動できる速度の上限のあたりを想定していることがわかる。さて、この数字をみて、腑に落ちるか、それとも違和感を覚えるか。自分の速度中毒度を測る目安にはなりそうだ。ふたつ目の文章の「退廃」という訳語は、原文ではdecayなので、むしろ「劣化」という単語を充てた方が意味はわかりやすくなる。ここでいう退廃、劣化という言葉が意味するところは、民衆の力が専門家に吸い取られていく「技術権力体制(テクノクラシー)による支配」(p.14)を意味している。この部分こそがイリイチの真骨頂といえるし、例えば、グレーバーの「ブルシットジョブ」などに通じていくものだろう。
この稿をはじめるにあたり、コロナ=速度問題だと書いた。でなければ、イリイチの本を読み直そうとも思いつかなかっただろう。やっぱり、何人かで一緒に読んだ方が面白そうだ。
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